シーと彼方の光



今日、本当に久しぶりに、以前大好きだった想い出の曲を聴きました。
iPhoneから曲を再生している間、すぐそばにシーがいて、一緒に聴きました。
そしてこの曲を聴いているうちに、この曲に夢中になっていた頃が蘇り、1人の女性を想い出しました。
懐かしさと切なさとともに…

そんな彼女との想い出を、綴ってみたいと思います。
シーに語りかけるつもりで…






東日本大震災よりも少し前でしたかすら、もう8年ほど前の夏になりますが、私は胸の前部に腫瘍が見つかり手術をしました。

健康診断のレントゲン撮影で胸に影があると診断され、仙台市の仙台厚生病院で改めて検査を受けました。
仙台厚生病院は、肺癌手術数が東北1で、最先端医療が受けられる東北屈指の病院です。
ですから、私も再検査を受けるのに際し、最も信頼できる病院として、仙台厚生病院を選びました。





どんな検査を受けたのか?
もう確実なところは覚えていませんが、別棟に設けられている最先端の施設で、MRI検査を受けたのだけは覚えています。
そして検査の結果、胸の前部に、およそ直径2センチほどの腫瘍があることが確認されました。
しかも担当の医師からは、この腫瘍がどのようなものなのかは、手術を行い切除してみないとわからないと説明を受けました。

やはり最悪のことを考えてしまいました。
もし悪性なら死んでしまうのか?

さらにその頃の私は、ヘビースモーカーだったのですが、煙草を吸っていると支障があり手術することができない、すぐに禁煙し1ヶ月後に手術を行いましょう、と言われてしまいました。
病院の帰り道、最後の1本を吸いました。


そして1ヶ月後の8月初旬に、私は仙台厚生病院に入院しました。
私は、他の患者さんと同室になることを嫌い、個室の病室を希望していました。
しかし入院してみると、個室が満室で、最初の晩だけ相部屋になりました。

私が入院した9階は、主に癌患者と糖尿病患者が入院している階でした。
初日はほとんど検査もなく手続き後、すぐに病室に案内されました。
私は、窓側のベットでしたが、通路側の老人も入院したばかりで、家族に囲まれていました。
やはり健康診断で癌が発見されたらしく、もうあちこちに散らばっていて、どうしようもない状態のようでした。
老人はすっかり悲嘆していました。

夜ベットのカーテンを閉め、スタンドライトの灯りで、持参したENGINという外国車専門のフッション誌を読みました。
老人の呻き声が聞こえて来ました。


翌日、個室の病室に移りました。
窓側に小さなテーブルとソファがあり、シャワーも付いています。
朝の診察の時に、ベットの上の雑誌ENGINを、担当の先生に見つけられました。
外車が好きなのか?





たしか入院して3日目か4日目が手術の予定でしたが、おそらく緊急の手術が入ったため、予定が1日延びてしまいました。
しかも担当医師まで代わり、若い医師からベテランの外科部長の医師になりました。
雑誌ENGINを見つけて、声をかけてくれた医師でした。

入院中の楽しみはやはり食事でした。
時間になると、各々のメニューに沿った食事が、エレベーター近くの廊下に運ばれて来ます。
大部分の患者さんは、運ばれて来た食事をトレーごと受け取り、待合室で食べていましたが、私は1人個室へ持ち帰り食べていました。
やはり大勢の中で食事をするのを嫌い、1人で食べたかったからです。
普段ならビールとご飯でしたが、さすがに入院中は禁酒なので、我慢して食事をしました。
なぜかどんな物でも美味しく感じました。


個室の病室にはシャワーが付いていましたが、ほとんど利用せずに、階に設けられた共同風呂に入りました。
毎日利用することができて、入院するとお風呂に入れず、髪も洗えなくなるといった心配は無用でした。

よかった

ちなみに入院する前日、いつもお世話になっている美容室で、かなり短くカットしてもらいました。
それまでは必ずパーマとカラーをしていましたが、その時は、パーマはかけずにカラーだけにして、かなり短くカットしました。
入院中は、あまり髪を気にしたくなかったからです。

入院すると毎朝、担当医師が診察に訪れ、看護婦さんが血圧を計ってくれました。
手術の前日には、カテーテル検査があり、腕の動脈からカテーテルが入れられました。
検査の後は安静が必要で、ずっとベットに寝ていましたが、なぜかカテーテルを入れた箇所が腫れてしまい、看護婦さんが緊急処置をしてくれました。


私の手術日は、8月5日の午後でした。
その夜は、ちょうど仙台七夕まつりの前夜祭として、花火大会が行われる日でした。
病院の9階からは、打ち上げられた花火を鑑賞することが可能でしたが、手術日の延期で日にちが重なり、花火は見れなくなってしまいました。

残念でしたね

担当の若い看護婦さんから言われました。


手術日当日、兄と叔父が来てくれました。
私の受ける手術は、もちろん全身麻酔で、胸腔鏡手術と呼ばれているものでした。
胸を開かず、胸と脇に2箇所穴を開けて手術を行う、出来る限り患者に負担をかけないものでした。

個室の病室で兄と待っていると、看護婦さんが迎えに来てくれました。
いよいよかと思いました。
もうなるようにしかならない

2階の手術室まで、兄が見送ってくれました。
手術室に入り手術台に仰向けになると、麻酔処置が行われ、すぐに眠りにつきました。



目が覚めると、もう深夜らしい時間でした。おそらく集中治療室の中でした。
ベットに寝たまま、点滴や何本かの管が身体に取り付けられていて、身動きできない状態でした。
たしか担当の若い看護婦さんが、側で待機していました。
それから朝方まで、身動きできない状態が続き、とても苦痛でした。眠ろうとしてももはや眠ることも出来ず、一刻も早く朝が来て欲しいと願うばかりでした。
それはとても長く感じられました。

ようやく漆喰の暗闇が仄かな明るさを見え始め、この広い部屋には、自分の他に何人もの人が寝ていることに気がつきました。
医療機器に囲まれたベットが、いくつもあったのです。
担当の看護婦さんが、ようやく管を外してくれました。
抱きかかえられながら、床に脚を下ろし、踏ん張って立ち上がりました。

1歩1歩
歩いてみました。
大丈夫そうでした。
続けてベットの間をゆっくり歩いてみました。
ようやく手術が終わったと、実感できる瞬間でした。

終わったぞ


それからまた9階に戻りましたが、個室の病室には戻れず、同じ階の治療室で、1晩過ごすことになりました。
胸には包帯がぐるぐる巻かれて、まだ少し痛みがありました
お昼には通常の食事が運ばれて来ました。
手術後、何も食べいなかったので、お腹が空いていました。
喜んで食べたのですが、途中から吐き気がしました。全身麻酔の影響でしょうか?
そしてその晩、胸の痛みが増して来ました。

すみません
胸が痛みますけど

座薬すれば和らぎますよ

いやそれはいいです
我慢します

若い看護婦さんだったので、恥ずかしくて断りました。


私はこの入院に際して、雑誌のENGINの他に、村上春樹の「1Q84」を1巻、2巻の2冊持参していました。
村上春樹は以前より愛読していて、デビュー作の「風の歌を聴け」とか「羊をめぐる冒険」、「ノルウェーの森」などを読んでいました。
ちょうどその頃「1Q84」がとても話題になっていて、入院中は時間もあるだろうからちょうどよい機会だと思い、持参していました。
読み始めると、すぐにこの新作に魅了されました。おそらく入院中は時間さえあれば、この小説に没頭していたと思います。
個室ということもあり、消灯時間が過ぎ深夜になっても熱中してしまい、見廻りの看護婦さんから、注意を受けてしまったこともありました。

もう遅いですから寝てください





それから翌日、個室の病室に戻ることが出来ました。
会社には、社長にだけに腫瘍のことを伝え、入院するための有休をもらっていました。
しかし他の同僚には、一切事実を伝えていませんでした。
同情されたくなかったこともありましたが、1番は、私を毛嫌いしているある女性社員に知られたくなかったからでした。

ザマアミロ

きっとそんな言葉が発しられるはずだから。

普段その女性社員は、私とすれ違う時に、必ず鼻をつまみました。私の匂いを嗅ぎたくなかったからでしょう。あからさまにそうされると悲しくなりました。しかしそれは何度も繰り返され、手を振って匂いを消す動作までされました。


医師からは、病棟内を歩いて体力の回復に努めるようにと、助言をもらっていました。
私は9階の長い直線の廊下を、タオルを首に巻いて何往復もしました。

最初の晩に泊まった病室や糖尿病患者の病室、ナースステーションの傍をゆっくり歩きました。
おそらく気持ちは清々しく、病気を克服する喜びに満ちていたと思います。

そして時間さえあれば「1Q84」に没頭しました。
同僚に何も伝えなかったのと、数少ない友人にも伝えていなかったので、見舞いに来てくれたのは、親戚の叔母さんぐらいでした。
ただ1人を除いては…



それは何年か前に、飲み屋で知り合った美沙という若い女性でした。
その美沙には、腫瘍が見つかり入院して手術をすることを、メールで伝えていました。
本当は、手術する前に来て励ましてくれることを期待していましたが、彼女は来てくれませんでした。

それでも普段通り毎日メールのやり取りをしていると、ようやく見舞いに来てくれることになりました。
そしてその日は、入院して初めての日曜日だったはずでした。
病院内で休患の日曜日を利用して、七夕まつりが行われた日だったからです

1階の広い待合室ホールを使って、何本かの短冊や七夕飾りを飾った笹が立てられ、何軒かの出店が開かれました。
病院の入院患者はもちろん、医師や看護婦など病院のスタッフも顔を見せていました。
そしてメインイベントは、5人ほどの若い看護婦によるミスコンテストでした。

1階待合室ホールの中央部分から2階へ連絡しているエスカレーターを、順番に降りて来る形でコンテストは行われました。
司会者の女性がマイクで、エントリー者の名前と所属の担当や簡単なプロフィールを紹介します。
すると七夕らしく浴衣に着飾った看護婦が、笑顔で手を振りながら、エスカレーターを降りて来ました。
集まった人達からは、大きな歓声や声援が送られ、熱気溢れる盛り上がりを見せていました。






そしてこのコンテストの最中に、美沙からメールが届いたのです。
私は病院の裏口まで、迎えに行きました。
彼女は、恥ずかしそうに現れました。
スラリとした脚に、大好きなデニムを履いていました。

久しぶり

あはは

今日は病院で、七夕まつりが行われているよ

なんかびっくり
あはは

彼女の特徴は、女の子にしては大袈裟な笑い方でした。
整った顔をしているのに、口を大きく開けて笑う表情は、どこか違和感がありました。

そして病院内で行われている七夕イベントに、とても驚いていました。
美沙とコンテストを見ながら、出店を巡り、焼きそばやたこ焼きを買いました。
コンテストが終わると、エレベーターに乗って、私の個室の病室まで案内しました。
窓側のソファに向かい合って腰を下ろし、出店で買った焼きそばなどを食べながら、入院生活の様子を話しました。

来てくれてありがとう

あはは
この焼きそば美味しいね

ENGIN持って来たよ
あとこの村上春樹の「1Q84」読んでたよ

面白いの?
ENGIN見せて

美沙は、毎月発行されるENGINを、私が会うたびに持参していたことから、いつの間にか彼女も愛読するようになっていました。
そしてその当時、私は2台の外車を所有していました。
1台は、メタリックブルーのMINIクーパーS。
そしてもう1台は、フランス車でやはりとてもきれいなブルーのルノーのカングーでした。


とくにカングーは毎日の通勤に使っていて、決して日本車では味わえない、あの路面を掻くように走りながらもソフトな足回りは、唯一無二のものでした。
1度乗ったら忘れられず、病みつきになるそんな車でした。

外見も、背が高いフォルムながら、フランス車らしくとても洗練されお洒落でした。
内装はそのまま鉄板がむき出しになっていて、運転席の上や両サイドにも収納スペースが設けられ、まるで旅客機の座席に腰掛けているようでした。

美沙にも、1度だけこのカングーに乗せたことがありました。
きれいなブルーとお洒落な外見、内装の凝りようにびっくりしていました。





美沙は、ページをめくりながら、いつものように大きな声で、独り言の感想を喋り始めました。

あはは
これなんかいい
これステキ

あのね
後ろの方に、フェラーリに乗っている女の人が紹介されているんだけど
見てみて

うしろ?

そこに女の人が飼っている犬の写真もあるんだ

どこどこ?

これ?
あはは
可愛い

なんていう種類かわかる?

若くしてフェラーリを所有しているキャリアウーマンが、車の他に愛犬も紹介していました。
その頃の私は、まったく犬に関して知識がなくて、チワワやダックス、トイプードルにブルドッグぐらいしか名前がわかりませんでした。

あはは
私もわからない
でも可愛いね


数年後、私は父が亡くなり、家に1人残され、犬と暮らす決心をした時、兄の1人娘が大好きなシーズーにしようと、迷いなく思いました。

仙台市近郊の名取市にあるイオンショッピングプラザ内の、ペットプラスというお店に、兄たちが帰省した際、よく見に行きました。
兄の1人娘は、犬が大好きで小さい頃から犬が欲しいと言っていました。

とくにシーズーがお気に入りで、お店にシーズーがいようものなら、ずっとガラス越しに眺めていました。
犬に疎かった私も、いつしか感化されて、犬と暮らすことを決心した時も、まったく迷いなくシーズーのメスにしようと、決めていました。
そしてそのペットプラスのお店で、シーと出会うことになりました。


俺ももし1人になったら、犬でも飼おうかな

あはは
いいんじゃない
私はもういるけど

美沙は、離婚した母親と2人で、仙台市中心部の古いマンションで、暮らしていました。
おそらくペット禁止のマンションのはずですが、犬1匹と猫1匹を飼っていたはずです。

そして最近は、昼間の仕事の他に夜の仕事を始めていて、時々飲みに行くこともありました。

あはは

お店でも大きな声で笑う彼女は、美貌とともに目立っていました。


しばらくして、美沙の幼なじみのさえちゃんも、同じお店で働き始めることになりました。
私が飲みに行くと、必ずさえちゃんも顔を出して、しばし話しをしました。

彼女は、たびたび海外に1人で何ヶ月か過ごし、日本に帰って来ては、また仕事をして、お金が貯まると、海外に出かけるという生活を繰り返していました。
しかも彼女が訪れる国は、有名な観光地などがある国ではなく、ソビエト連邦の1国だった国とか、あまり知られていない国ばかりでした。

なんでそんな国に行くの?

とてもいい国よ
知られてないだけ

彼女は、英語を勉強する傍ら、いろいろな国を研究していて、そんな無名の国でさえ、ちゃんと魅力をわかっていました。

この国はとても自然がきれいなのよ

たしかそんな話しもしていました。
そして美沙は、そんなさえちゃんを実の妹のように可愛がっていました。

さえは、目標を持って生きている
ちゃんと英語を勉強して、好きなことをやっている

どちらかと言うと、まだ目標を持っていなかった美沙にとって、歳下なのに懸命に努力を続けているさえちゃんは、輝いて見えたのかもしれません。
そしてその頃、公式テニスの県の大会でシングルスに出場していた私に対しても、熱く応援してくれました。

試合に勝ったら教えてね
お祝いメール送ってあげるから

実際、試合に勝ってメールを送ると、美沙からとても派手なメールが届きました。
おめでとうの絵文字を始め、優勝した時のくす玉の割れた絵までありました。

パチパチパチ



こんな感じの私たちでしたが、3人には共通の大好きなアルバムがありました。
私の11月の誕生日が近づいたある日、冗談のつもりで美沙におねだりしてみました。

GUCCIの腕時計がいい

そして誕生日当日、私と美沙は、いつもの仙台の一番町にある居酒屋で、お酒を飲みました。
美沙はあまりお酒が好きではなくて、いつもジュースか烏龍茶を飲んでいたと思います。
私は当然いつものプレミアムビールを、飲んでいました。
そして誕生日ということで、料理もいつもよりちょっぴり豪華にしていました。

これ誕生日プレゼント

え?
ありがとう

びっくりしました。
なぜならプレゼントの包装紙が、GUCCIだったからです。

これもしかしたら?
開けてもいい?

あはは
もちろん

美沙は、やや緊張気味ながら満面の笑みでした。
私はドキドキしながら、GUCCIの包装紙を丁寧に解いて、やや小さめのブラウンの四角い箱を開けました。

ほんとに

やっぱり箱の中は、シルバーのGUCCIの腕時計でした。

ほんとにいいの?
高かったでしょ?

うん
誕生日おめでとう
あはは

ほんとにありがとう
とてもステキな時計だよ

私は、ほんの冗談が本当になって、とても恐縮していました。
美沙に無理をさせてしまった。
でも彼女の気持ちがとても嬉しくて、感謝の気持ちでいっぱいでした。
催促されて腕時計をしてみました。

あはは
似合うね

ありがとう
もう今日からずっとするから

うん
でももっとユッキーにあげたいものがあるの
これよ

美沙は、ビニール袋から1枚のCDを取り出しました。

当然、見たこともないCDでした。

Libera(リベラ)っていう少年合唱団なの
すごくいいから聴いてみて
あはは

美沙は、カバンから小型のポータブルCDプレーヤーを出して、CDをセットし再生してくれました。

とくにこの曲がいいの

少年たちのとても澄んだ美しい声に、美しい曲。
びっくりしました。
そしてそれが、Libera(リベラ)のFar away(彼方の光)でした。

すごくいい曲だね

そう
私大好きなの
とても癒される
あはは





美沙は、高校も中退していたし、正直それほど教養のある女性だとは思っていませんでした。
しかしこうして、私に自分がとても美しいと感じている曲を聴いて欲しくて、CDまで買ってプレゼントしてくれるなんて、本当に思ってもみないことでした。

美沙ちゃんは、ほんとに美しいものがわかるんだね

あはは
さえも、Libera(リベラ)が好きなんだよ

それから私は、毎日通勤中にカングーの中で、Libera(リベラ)を聴きました。
ほんとに通勤の行き帰り両方とも、Libera(リベラ)を流し続けました。

ですから、私が美沙に会いに飲みに行くと、さえちゃんも加わって、よく3人で、Libera(リベラ)の話しをしました。

やっぱり6番目の曲が1番いいね

私もそう

あはは
もちろん

私も美沙もさえちゃんも、1番のお気に入りは、やっぱり、Far away(彼方の光)でした。






美沙がお見舞いから帰った後、1人で犬のことを考えました。

でも親父は介護施設にいるし、もうちょっと先かな


それから1週間ほどで、無事退院することができました。
ちょうどお盆の夏休みに入ったため、出勤はお盆明けでよくなりました。
しばらく胸に包帯を巻いたままの生活が続きました。

たしか2、3週間後に腫瘍の検査結果が出ました。
良性でした。
若くして死ぬことは避けられました。

ほんとによかった


それから秋になり11月になりました。
再び誕生日がやって来ました。
当日は、やはり美沙に会いにお店まで行きました。
その頃の美沙は、仙台市近郊の名取市にある離婚した父親の実家に、よく泊まりに行っているようでした。

そしてその日も、誕生日プレゼントをもらいました。

ユッキー
ほんとのプレゼントは、おばあちゃんの家に忘れて来たから、何もないのはと思って代わりにこれで
ごめんなさい
今度おばあちゃんの家に行ったら、取って来てまたプレゼントするから
あはは

三越の包装紙のプレゼントは、私がいつも愛用しているニット地のハンカチでした。
お店を出る時、美沙はエレベーターの前まで、見送りに来てくれました。
そしていつも通りに、手を振ってくれました。

バイバイ
あはは



それが美沙との最後でした。
家に着いて、誕生日プレゼントのお礼のメールを送りましたが、返事は返って来ませんでした。
翌朝もメールを送りましたが、返事はありませんでした。
誕生日プレゼントを忘れたと言われた時、何か不自然な感じがしましたが、それが現実になったのだと思いました。

美沙には、それから何日かメールを送り続けましたが、やはり2度と返事が返って来ることはありませんでした。
GUCCIの腕時計は、それからも毎日愛用していました。
しばらく、Libera(リベラ)も聴き続けました。
時々、美沙と撮ったプリクラを見ることもありました。

やがて新しい腕時計を購入し、Libera(リベラ)のFar away(彼方の光)も、聴かなくなってしまいました。



今日ふと、美沙と聴いた少年合唱団がなんという名前だったかと思い、Googleで検索してみました。

Libera(リベラ)
そうこんな名前だった

さらにGoogleでは、Libera(リベラ)の歌が、タップ1つで聴けるようになっていました。

Far away(彼方の光)
とても惹かれるタイトルだ

そしてタップすると、あの澄んだ美しい少年たちの歌声が聴こえて来ました。

これだ
美沙と初めて聴いた曲だ


Far away(彼方の光)
いったい何処へ私は行くのか
はるか彼方へ、そしてどこでも
何度も何度も、常にあなたは輝いている
暗い暗闇を抜けて、また私に呼びかける 
そして、いったい何処へ私は登るのか
はるか彼方へ、そしてどこでも
あなたは私を高く引き上げる、空の向こうで
嵐の夜を越えて、私を引き上げてくれる
精霊よ来てください 御使いを送ってください
精霊よ来てください 御使いを送ってください
精霊よ来てください
はるか彼方へ、空の向こうで





誕生日に、美沙から、Libera(リベラ)のFar away(彼方の光)が、収録されているCDをプレゼントしてもらったことを、ようやく想い出しました。
当時、彼女は、私にこの曲を通して、何かを伝えたかったのでしょうか?
もう確かめることはできません。

しかし、この天使のような歌声を聴いていると、人間として何より大切なことを、想い出させてくれるような気がしました。

シーも私のすぐそばで、じっとこの天使の歌声を聴いてくれました。

美沙ちゃんしあわせになれたの?
俺はシーと2人で暮らしているよ




最後に、もし美沙がこの拙いブログを読む機会があり、Libera(リベラ)のFar away(彼方の光)を、想い出してくれたら幸いです。

私のペンネームのユッキーという名前は、美沙がつけてくれた名前です。




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