シーとメナシ犬



中国の作家、閻連科(えんれんか)の小説に「年月日」というのがあります。
日本では、谷川毅訳で白水社から出版されています。
閻連科は、村上春樹に次いでアジアで2人目となるフランツ・カフカ賞を受賞し、次期ノーベル文学賞候補と目されている中国の巨匠です。その作品は、世界中に翻訳されているそうです。


「年月日」は彼の作品の中でも特異なものです。やはり犬が登場するお話しは、とても興味深いです。

千年に1度クラスの大日照りで畑は枯れ果て、住人たちは山間の村を捨ててしまいます。
しかし、72歳の先じいは、1人全盲の犬メナシとともに、たった1本芽吹いたトウモロコシの苗を守るために残ります。
わずかな食料をネズミと奪い合い、水を求めてオオカミに立ち向かう日々。
そして最後に、命をつなぐため、先じいは驚くべき手段を選ぶのです。


先じいが、雨乞いの生贄として縛り上げられ、太陽の光にさらされ、両目を失った犬を引き取り、メナシと名づけて相棒のように扱うところは、同じようにシーと2人で暮らしている私にとって、目頭が熱くなるところでした。

わしの来世がもし獣なら、わしはおまえに生まれ変わる。おまえの来世がもし人間なら、わしの子どもに生まれ変わるんだ。一生平安に暮らそうじゃないか。
先じいがそこまで話すと盲犬の目が潤んだ。先じいは盲犬の目をふいてやり、また一杯のきれいな水を汲んで盲犬の前に置いた。飲むんだ。たっぷりとな。これからわしが水を汲みに行くときは、おまえがトウモロコシを守るんだ。


先じいとメナシに守られて、トウモロコシは育ちます。決して順調ではありませんが、この日照りに枯れずにいるのは奇跡のようでした。
しかし、老人と犬とが食べるために育てているわけではありません。
それどころか、トウモロコシのために自分の命さえも犠牲にしようとしているのです。
ただ1本のトウモロコシのために。


最後に先じいは、トウモロコシを実らせるために究極の犠牲的な行動を取ります。
大バカもんが、トウモロコシは実をつけるときに1番肥料がいるんだってことがなんで思い出せなかったんだ。

トウモロコがよく実るために、自分を肥料にすることを決意するのです。

トウモロコシの根が出ている方の壁に張りつくように横になり、むしろを頭から足まですっぽりかぶった。土をかぶせるんだ、メナシ、わしを埋めたら北へ行け。

 
1年後、種まきの季節に村人たちが戻って来ます。実ったトウモロコシの中で、爪くらいの大きさの7粒だけが真珠のように艶々としていました。
村人たちは、トウモロコシの命をつなぎ、根と一体化した先じいの亡骸を目にして、祖先の墓に移すことを止め、メナシの死骸ともども、その場所に埋葬することにしました。


単行本の表紙は、照りつける太陽と大地の上に立つ1本のトウモロコシの下で、痩せほせた老人と犬が背中合わせにお尻をつけて座っている姿が描かれています。
不思議とトウモロコシの方が老人と犬とを守っているようにさえ見えて来ます。
自分の命さえ犠牲にしようとしたトウモロコシに、本当は命を守られていたのでしょうか。






ふとシーが、もしこの盲目の犬メナシと出会ったら、どうするだろうかと思いました。
いつも散歩で出会う犬と同じように、さかんにしっぽを振って挨拶するのでしょうか? 
メナシが目が見えないことに気がついて同情するのでしょうか?

でもメナシは目が見えなくても、臭いでシーのことがわかるでしょう。
自分が村で生贄にされ、太陽の光で失明したことを話すかもしれません。
太陽が照りつける村で、食料をねずみと奪い合い、オオカミに立ち向かい、やがてともに生きて来た先じいが、トウモロコシの肥料となるため命を捧げたことを伝えるかもしれません。

しかしメナシはきっと、シーと代わりたいとは思わないはずです。
どんなに食べる物がなくて過酷な生活を強いられても、先じいのそばを離れることはないはずです。

そしてシーもそんなメナシを、さかんにしっぽを振って励ますことでしょう。
散歩中なら、シーは振り向いて私の顔を見上げ、私がそばにいることを確認し、さらにしっぽを激しく振るでしょう。


今朝も朝食後、シーは私が腰掛けている台所の大きめの椅子に飛び乗って来ました。私のお尻と背もたれの間に身体を寄せてうずくまっています。
ちょうど私のお尻とシーの身体が繋がったようです。
私はお尻でシーの温もりを感じます。
シーも安心したように眠り始めます。

ちょうど台所のテーブルの上には、閻連科の「年月日」が置かれていました。
この本の表紙の絵の老人と犬が背中合わせに座っている姿と同じだと思いました。



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