シーとマリア Part3
ネコの耳
ノースポールは、消えていました。
ついこの間まで、この狭い庭に、可憐な少女のように咲き乱れていた、中心が黄色の白い花たちは、すっかり姿を消していました。
初夏が訪れ、暑さに耐えきれなくなって、舞台から隠れてしまった乙女のように…
後には、無機質な土が、人の手で整えられていました。
そして、まだ夜が明けたばかりだと言うのに、朝陽は眩しいくらいに、誰もいない小さな庭を、あたたかなオレンジ色に輝かせていました。
愛犬のシーズーのシーは、歩道沿いの木製の庭柵の下で、ハアハア言って腹ばいになっています。
シー
もう少し待ってて
もう約束の時間は、過ぎていました。
ベージュの壁に洋風作りの建物。
蒼い玄関扉から、彼女が、その美しい姿を現わすのを、待っていました。
白とベージュの体毛を、キラキラ輝かせているシーとともに…
原民喜は、最愛の妻を病気で亡くしました。
民喜38歳、妻貞恵33歳の時です。
もし妻と死に別れたら一年間だけ生き残ろう、悲しい美しい一冊の詩集を書き残すために
妻が亡くなって、あと1ヶ月で1年という昭和20年8月6 、疎開していた広島の実家で、原爆に遭います。
そして、「夏の花」を描きました。
しかし、私には、妻のほかに繋がりがあった2人の女性が、気になっていました。
1人は、貞恵と結婚する以前に、相当な身請け金を出して同棲した、横浜本牧の女性。
しかも、彼女は、わずか1ヶ月もしないうちに逃げてしまいます。
そして、もう1人は、まだ21歳の祖田祐子。
彼女宛の遺書もあり、また梯久美子の「愛の顛末」に、ー原民喜ー「死と愛と孤独」の自画像ー、でも触れられています。
彼女が、原民喜と後輩の遠藤周作の3人で、多摩川にピクニックに行ったエピソードもあります。
とても美しい女性で、奇跡の少女と、言われていました。
最晩年の、原民喜の救いだったのかもしれません。
しかし、横浜本牧の女性については、まったく手掛かりが得られていません。
なぜ
大金を出してまで
この女と暮らそうとしたのだろう
すぐに裏切られているのに
ずっとこの疑問が、残ったままです。
朝陽が、少し高くなったようです。
オレンジ色も、多少薄くなりました。
すでに落ち着かない様子のシーに、携帯用カップで水を飲ませていると、ようやく蒼い玄関扉が開きました。
おはようございまーす
おまたせしました
そこには、朝陽を浴びた、ベージュのネコらしい耳が、まばゆく光っていました。
ネコ?
耳?
びっくりしました。
なんと、マグダラのマリアは、耳つきキャップをかぶっていだのです。
しかも、よく見ると、ネコらしき大きな耳は、内側にもリアルに白い毛を生やして、ピンと立っています。
素材も、柔らかいスエードのような高級感あるものでした。
お、おはよう
可愛いボウシだね
うん
ネコなの
ヤラレタと思いました。
彼女が、とても洗練された、オシャレなことは充分認識していましたが、大きなネコ耳のキャップとは、想定以上でした。
ネコ耳つきスエード地のベージュのキャップ、黒と白のボーダーシャツ、デニムのショートパンツ。
いつも通り、耳には白い花形のVan Cleefのピアス、首にも白い花形のVan Cleefのペンダント。
そして、クロエオードパルファムの香り…
水を飲んでいたシーも、顔を上げて、さかんにしっぽを振り始めました。
おはよう
シーちゃん
じゃ、これ
うん
ほんとに
ありがとう
リードと、携帯用カップなどの入った小さなショルダーバッグを渡しました。
今朝は、シーと彼女だけの散歩という約束でした。
垣根付きの歩道を、東に向かって、ゆっくりシーと彼女は、歩き始めました。
朝陽が2人を、祝福するかのように、優しく包んでいます。
家々の彼方の、あたたかな橙色に染まった空の下、辺り一面、幻想的な空間が醸し出されていました。
2人の姿が、神々しく見えました。
やっぱり
マグダラのマリアだ
やがて、シーと彼女は、右折して路地に入って行きました。
2人の残像が、しばらく美しい想い出のように、漂っていました。
どんな話しをするのだろう
おそらくシーは、なかなか真っ直ぐに歩かず、電柱やら塀の角やら、あちこち匂いを嗅いで、困らせるでしょう。
しゃがんで、何回もオシッコはするし、ウンチもします。
でも、彼女は、そんなシーを慈しみ、優しく語りかけてくれるような気がしました。
マリアとして
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