シーとマリア Part5
もう1つの国
空を見上げて
夏の激しい陽射しが、少しだけ和らいだような気がしました。
空を見上げると、もこもこした大きな白い雲が、拡がって来ています。
しかし、暑さだけではない汗は、とめどなく流れます。
すでに、蒼いタオルハンカチは、びっしょりです。
シー
マグダラのマリアからは、すぐにLINEが届きました。
しかし、意味がよくわからないのです。
空を見上げて
なんのこと?
お願い
すぐに来れますか?
探すなら、1人より2人の方がいい。
1番の心配は、交通事故です。
いつもはリードで制御されているのに、何もなければ、飛び出してしまいます。
はい
すぐに
すぐ西の、垣根付きの歩道沿いにある、ベージュの壁の洋風作りが彼女の家です。
先日まで、可憐なノースポールの花たちが、少女のように咲いていました。
すぐに、その方角から、陽射しで眩い垣根付きの歩道を、駆けて来る彼女が見えました。
ベージュのセルロイド製のメガネ、白に黒い花柄が入ったノースリーブ、デニムのミニ、そして白のスニーカー。
ごめんね
ほんとうにごめん
シーちゃんは
シーちゃんは
見つからないの?
うん
クロエオードパルファムの香りがしました。
ベージュのセルロイド製のメガネの奥の、澄んだ瞳は、どことなく潤んでいます。
ほんとうに心配してくれてるんだ、と思いました。
空を見上げてって
どういうこと?
それは
シーちゃんがいつも
空を見上げてたから
シーが、空に何かを見つけて
探しに行ったということ?
ええ
ほんとうに
シーちゃんは
空を見上げていたんだから
こんな緊急な時に、真剣にそんな非現実的なことを、本気で考えているのかと思いました。
こんなにも奇跡のように美しい人は、やはりどこか違うのか?
とにかく
探そう
俺は、バイパスの方まで行ってみますから
アサノスーパーの方を頼みます
はい
大きな白い入道雲が拡がって来たとはいえ、まだまだ陽射しは強く、歩道の垣根の葉が輝いています。
その垣根は、鮮やかな紫色の松葉菊たちに、半分影を落としていました。
私たちは、二手に分かれて走りました。
ほんとうに走りました。
汗が、際限なく流れます。
シー
いつも空を見上げていたの?
そう言えば、むかし似たような話しを、小説で読んだことがありました。
空にはもう1つの世界がある
我々が、この地上で喪ったものが
100メートルの高みの空に浮遊していると
南北に走るバイパス(国道6号線)の交差点まで、やって来ました。
バイパスは、たくさんの車が行き交っています。
それぞれの運命、生活を背負って、走っています。
まず南の方角を確認しました。
バイパス沿いに、いろいろなお店が、陽射しに反射して並んでいます。
ラーメン屋、パチンコ店、労働金庫、ソフトバンクショップ…
しかし、犬の姿はありません。
そして、北の方角。
同じく陽射しに反射して、セブンイレブン、トヨタのディーラー、パチンコ店、少し遠くにビジネスホテル…
やはり、犬の姿はありません。
シー
ともかく南へ走りました。
バイパス沿いにも歩道が、連なっています。
古いアスファルトで、起伏が続きます。
車の疾風も感じました。
汗は、もう止まりません。
グレーのTシャツが黒のシャツに変わっています。
ハーフパンツの中のトランクスまで、びちょびちょです。
息も激しくなりました。
すると急に、歩道の明るさが消えました。
見上げると、もくもくした白い入道雲が、空いっぱいに拡がって来ています。
太陽が雲に隠れ、頬に風を感じました。
湿った匂いもします。
雨の降る予感がしました。
シー
アスファルトに、滴が1つ、黒い点を描きました。
次第に、点描画のように、拡がって行きます。
ペトリコールの雨の匂いがしました。
やはり、雨が降り出しました。
南も北も探しました。
もう息も続きません。
しかし、シーはどこにもいません。
絶望感が全身を覆っています。
しかし、もしかしたら、戻っているかもしれない。
そんな淡い希望を抱いて、頭に落ちる雨つぶを感じました。
足はもう悲鳴をあげて、スニーカーの中の指は、痛みが走ります。
彼女からも、まだ見つからないというLINEが届いていました。
シー
垣根付きの歩道を、自宅に向かって、できる限り急いで歩いていました。
痛みも忘れ、シーのことで頭がいっぱいです。
もう雨は、かなり強くなっていました。
すると、この雨の中、公道の反対側の垣根付きの歩道を、傘もささずに男の人が、犬と歩いていました。
垣根が邪魔をして、どんな犬かよく見えません。
しかも、立ち止まって、犬を覗き始めました。
あれ?
私は、すぐに公道を渡り、反対側の垣根付きの歩道に向かいました。
雨がさらに強くなっています。
10メートル先に、男と、白にベージュの小型犬が佇んでいました。
霞んでいますが、白にベージュ。
シー
私は、一目散に駆け寄りました。
やはりシーです。
もう全身ずぶ濡れでした。
それでもシーは、私を見上げて、しっぽを振り始めました。
私は跪き、シーの短い首あたりに、両腕を回しました。
嫌がるように身体を動かしますが、構わず抱きしめました。
すると、私の頬を、ペロリと舐めました。
男の人が、怪訝そうに立っています。
何か言いたげでした。
すみません
この子は、私の犬です
あー
飼い主さんですか
よかった
学校に入って来て、困っていたんです
迂闊でした。
たしかに、私の家の公道を越えた斜め向かいは、公立の中学校です。
どうやらシーは、家を飛び出し、中学校のグランドを、走り回っていたようです。
もしかしたら、校舎の中まで入っていたのかもしれません。
私は、教師らしき中年の男に、お詫びと、お礼を述べました。
すぐに、マグダラのマリアにLINEを送りました。
シーが帰って来た
雨は、容赦なくシーと私を撃ちつけます。
今度は、シーを抱っこしました。
全身の毛がすっかり雨を吸収し、ペタリと身体に密着しています。
僅かに震えています。
ごめんね
シー
雨つぶを浴びながら、見上げると、すでに色の濃い入道雲が、空一面を覆っていました。
シーは、空を見上げていたんだ
それは、地面に腹ばいになって死んで行く蝉を思ってか
地上で喪った何かを思ってか
もう1つの世界を見ていたのか
普段は滅多に吠えないシーが、稀に、理由もなく吠えるのは、この私が、日常生活で辛酸を嘗め、大切なものを喪った時に、代弁者として吠えてくれたのか
公道を渡ると、西の方から、雨の中、仄かに彼女が駆けて来るのが、見えました。
もう髪も、身体もずぶ濡れです。
しかし、その姿は、なぜか神々しく見えました。
シーちゃん
彼女の息を弾ませた美しい顔は、雨なのか汗なのか涙なのかわからないほど、濡れていました。
額に前髪が、貼り付いています。
白い花形のVan Cleefのピアスが、濡れた髪の合間に覗いていました。
シーちゃん
彼女は、私に抱っこされているシーに、まるで自分の赤ちゃんを見守るママように、微笑みかけました。
そっと、シーの濡れた頭を撫でました。
そして、やはりずぶ濡れの私の肩に、その手を移しました。
信じられない真実の優しさに満ちた掌が置かれました。
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