シーとマリア Part6



原民喜は、とても寡黙な人だったようです。
人と会っても、ひと言も言葉を発しないことすらありました。
また経済的な能力も低く、妻の貞恵は、実家から戻るように言われましたが、きっぱりとはねつけ傍に寄り添っていました。
そのような唯一の理解者だった妻が、33歳の若さで病死すると、もう死ぬことしか頭になかったのかもしれせん。

もし妻と死に別れたら一年間だけ生き残ろう、悲しい美しい一冊の詩集を書き残すために

しかも彼はその生涯で、被爆体験を軸にしたもの、妻貞恵を追慕したもの、少年時代を回想したものしか描いていません。
ほかの作家のように、青春を主要な文学的題材にしなかったことは、彼の文学的資質を垣間見れると思います。

ただ私には、1つだけ、そのような彼が、横浜本牧の女性を、相当な身請け金を払ってまで同棲し、1ヶ月も経たないうちに逃げられてしまった事実が、とても引っかかっています。
しかも彼は、その後、カルモチン自殺まで図っています。

なぜ?

まだ、手がかりになる資料は、見つかっていません。


気配を感じて、目が覚めました。
東の窓の古びたベージュのカーテンだけが、仄かに明るくなっています。
シーが、枕元を横切っています。
異質な匂いがしました。
布団の傍の古い畳の上に、嘔吐物がありました。

シーは、仄かな明かりの古びたベージュのカーテンの下で、再び吐き始めました。 


夏の強い陽射しが、庭の黒ぽい土を容赦なく照りつけています。
1本の金木犀だけを、玄関脇に残してあります。
松の木もさかきの木も、すべて撤去しました。
たくさんの盆栽の鉢もすべて処分しました。
父が亡くなり、庭の手入れが困難になったからです。
しかし、父がとくに好きだった、金木犀だけは残しました。

玄関脇の金木犀の、甘く強い香りが、秋の訪れを教えてくれます。
晩年、介護施設で暮らすことを余儀なくした父は、秋になるとよく尋ねました。

金木犀の匂いはしないか?

私は、玄関脇の金木犀の、橙色の花のついた枝を、父のもとに届けました。


マグダラのマリアに、LINEでシーの様子を伝えました。

シーちゃんの様子が見たい

動物病院から帰る時間に、私の家で待ち合わせをしました。

動物病院から戻ると、すでに彼女は、陽射しで眩い葉を茂らせた金木犀の傍の、屋根で日陰になっている焦茶色のアルミ製の縁台に、腰掛けていました。

白い大きなつばのキャップ、白に蒼色の模様のキャミソールワンピース、やはり、耳には白い花形のVan Cleefのピアス、首には白い花形のVan Cleefのペンダント。
そして、クロエオードパルファムの香り…

キャミソールワンピースからは、豊潤な胸が溢れそうでした。

待ちました?

いえ
シーちゃんは
大丈夫?

大きなキャリーバッグから、そっとシーを出しました。
シーは、彼女を見上げて、ゆっくりしっぽを振り始めました。

血液検査の結果は
何でもなかった
夏バテで胃が弱っているらしい

じゃ大丈夫ね?
たいしたことなくてよかった

彼女は、優しく微笑みながら、シーの頭をそっと撫でました。

日陰になっている焦茶色のアルミ製の縁台に、並んで腰掛けました。
彼女は、2缶のレモンスカッシュを持参していました。
シーも、目の前の日陰のコンクリートの地面に伏せています。

この樹は
金木犀だよ

金木犀?

秋になると
橙色の花が咲いて
甘く強い香りがするんだ

…………

親父が好きだった
だから金木犀だけ
残したんだ

そう

相変わらず、夏の陽射しが、金木犀の葉を眩く輝かせています。
シーは、もうしっぽも振らずに、静かにしていました。
レモンスカッシュの甘酸っぱい味…
クロエオードパルファムの香り…

彼女に、聞いてみたいことが、たくさんありました。
でも、まだ聞いてはいけないような気がしました。

金木犀が咲いたら
また見に来て

はい


夜になるとシーは、最近の定位置だった玄関のフローリングの広間ではなく、私の布団の上で寝始めました。
少し身体を丸くして、寝ています。
すやすや寝息も聞こえます。

エアコンを付けては消し、室温の調節を繰り返しました。
シーとの想い出を、日記のように残したいと思いました。
白い花形のVan Cleefのピアス、白い花形のVan Cleefのペンダント、クロエオードパルファムの香り…と共に。

朝陽を浴びた広大な大地に、シーとマグダラのマリアが立っている姿が浮かびました。
それは、なぜだかやはり、神々しく見えました。

iPhoneで、1文字1文字書き始めました。

朝になったら、シーに、消化の良い柔らかなドッグフードを、少しだけあげてみようと思いました。



シーズーと一緒に映画

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