シーと森の隠遁者 Part3
1つの星
「森」の中の頭上を覆う葉や枝の隙間から、紺碧色の空に輝く星々が覗いていました。
とくに、東方の隙間から覗く、ベガがひときわ目立って輝いています。
今夜は、再び、新月でした。
月明かりのない夜空は、いつもよりたくさんの星が散りばめられています。
先月、純子と初めて見たあの純白の花と、この紺碧色の夜に、再びめぐり会えると思い、胸が高鳴りました。
この「森」は、どうやら、竹のほかは、広葉樹の森ようでした。
けもの道のような細い路が1本あるだけで、あとは雑草に覆われています。
暗闇の中、短い雑草を踏みしめながら歩き進めると、ようやく目の前が開けました。
「隠遁者」のトタン屋根の古い木造平屋建てと、東隣のトタン屋根のやはり古い木造の物置が、静かに佇んでいます。
主屋は、茶の間と縁側にカーテンが引かれ、真っ暗です。
縁側の軒下の、3つ並べられたうちの右端の鉢に、仄かに1輪の純白の花が咲いていました。
純子と見た、夜にだけ咲くあの花です。
近づくと、甘く強い香りがしました。
真ん中に大きく飛び出した雌しべがあり、白い大きな花びらが重なりあって開いていました。
東隣の古い木造の物置の広い下屋には、白く痩せた犬が伏せていました。
こちらをじっと睨んでいます。
しかし、それは警戒心のない優しげな眼差しでした。
ゆっくり近づき、犬の傍に置かれた2つのステンレス製の器を確認しました。
そのうち1つに、主屋の玄関脇にある蛇口から水を注いで、なおも伏せたままの犬の口もとへ置きました。
すると、白い痩せた犬は、ようやく立ち上がり、ステンレス製の器の水を、舌で送り込むようにゆっくり飲み始めました。
もう1つの空のステンレス製の器には、プラスチックの容器に入れて持参した、味噌汁と白米を混ぜたご飯を、たっぷり入れました。
白い痩せた犬は、これも慌てず、ゆっくり食べ始めました。
また、近くには、段ボール箱の中で2匹の三毛猫のような子猫が、抱き合うようにして微かに寝息を立てていました。
細かくした食パンと、小さな焼き魚を2匹段ボール箱の隙間に置きました。
仔猫がどのようなものを食べてくれるか見当もつかなかったで、とりあえず試してみることにしました。
白い痩せた犬は、ステンレス製の器を空にすると、再び、伏せて目蓋を閉じました。
紺碧色の空には、たくさん星が無言で輝いています。
東の空には、ベガがひときわ明るく輝き、西の空にも、アルクトゥールスがいっそう明るく輝いていました。
ゆうちゃん
突然、私を呼ぶ声がしました。
振り向くと、白のTシャツにデニムの短パンの純子が立っていました。
1人で来るなんてずるい
今夜も月の出ない夜だもの
ごめんなさい
ひとつだけ白い花咲いてるよ
純子は、小さく頷き、軒下の純白の花に目を向けました。
彼女の白のTシャツが、純白の花と同じくらい眩しく感じました。
私たちは並んで、しばらく、甘く強い香りを嗅ぎながら、朝陽を見ることなく萎んでしまう、儚い運命の純白の花を眺めました。
犬にご飯をあげたの?
うん
「隠遁者」が帰って来るまで
あげようと思って
すると純子は、突然、私を抱き寄せ、柔らかな唇をそっと頬に触れました。
びっくりしました。
石鹸の香りがしました。
いい子
純子は、悪戯ぽく微笑みながら呟きました。
帰り道、純子に左手を引かれながら、「森」の中のけもの道のような細い路を、雑草を踏みしめながら歩きました。
ゆうちゃん1人じゃたいへんだから
私も、犬たちにご飯を届けるね
仔猫には、きちんとキャトフード
買って来るから
うん
ありがとう
やがて「森」を抜けると、すぐに私たちの住処の国鉄官舎が見えました。
その手前の路の脇には、純子といつも眺めている向日葵が、旧時代の残滓のように、大きな黄色い花弁を東の空に向けていました。
なぜみんな「隠遁者」と呼ぶの?
ナオミ先生も言ってたよ
「隠遁者」って難しい言葉よ
「世捨て人」と言った方がわかるかな?
よすてびと?
あいつは、よすてびとなんだ
世の中が好きじゃなかった
1人だけで暮らしたかったのかもしれないね
向日葵が見上げている紺碧色の東の空に、ベガがダイヤモンドみたいに輝いていました。
もっと何か言いたいと思いましたが、言葉が出てきません。
星は、1人で夜空にいるけど、それでも綺麗に輝いていると思いました。
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