東日本大震災と愛と哀しみのボレロ
平成23年3月11日午後14時46分東日本大震災は発生しました。
私は仙台市内の事務所のデスクに座っていて、グラっと揺れを感じましたが、最初は普通の地震だと思いました。
しかし揺れが段々と強くなって来て、しかも終わる気配がなかったのです。
激しい揺れはさらに続き、天井の繋ぎ目からプレートが落下しました。
悲鳴が起こります。身の危険も感じました。まだ激しく揺れています。
それはとても長く感じられました。
やがて揺れは収まりました。照明が消えて、机のパソコンの電源も切れていました。
外へ出ると大勢の人たちが避難していました。
ざわざわと人々の声で満ちています。
何かしら煙ぱいものが辺りに漂っている感じがしました。
隣のビルの看板が落ちていたり、尋常ではないことはすぐわかりました。
会社では小さなポータブルテレビを付けてニュースを流していました。
仙台市近郊の海沿いの名取市閖上地区に大津波が押し寄せ、町がのみ込まれる様子が映し出されていました。
それは本当に現実とは思えない光景でした。
家が車があるいは人が津波にのみ込まれて行くのです。
すぐに帰宅するよう会社から指示があったため、私は車で家路に向かいました。
雪が降り出していました。
市内は大渋滞で、いつもは30分で着くはずのところ、家に着いたのはもう夜の10時を過ぎていました。
家に着いて被害を確認してみたところ、2階のテレビが倒れているのと、台所の食器棚から食器が落ちて割れている程度でホッとしました。
もちろん電気も水道もダメでしたので、軽く食事をしてすぐに寝ました。
3月でもまだ寒い夜でした。
翌日食料を確保しようと近くのコンビニに行きましたが、ほとんど食料は売れ切れていました。
岩沼市内を自転車で回って、あちこちのスーパーや臨時で販売している食料を少しだけ確保できました。酒屋にも寄ってビールと日本酒も買いました。
近くの中学校には自衛隊の給水車がやって来て、ペットボトルを持って並びました。
幸い近くの祖母の家には井戸から汲み上げた水を使えるお風呂があり、水道が復旧する前でもお風呂だけは入ることができました。
祖母の家にお風呂に入りに行った際、叔母さんから今後のためにも海岸の方を1度見に行ってご覧と勧められました。それはすごい光景だからと。
翌日私は自転車で海岸まで行ってみました。途中道路の脇や田んぼには多くの瓦礫が残され、家々もかなりの被害を受けていました。
大きな豚も横たわり、車がひっくり返り、柱だけの家が何軒もありました。
浜辺に着くと、松林が半分以上無くなっていて、堤防の一部が崩れていました。
遠くに見える仙台港では、大きな石油タンクが横倒しになっているのがわかりました。
しかし海は何事もなかったかのように、瓦礫に満ちた浜辺に白い波をうち寄せていました。
海沿いに住んでいた人たちはどこに行ってしまったのだろう。漠然とそう思いました。
当時、父は存命で近くの介護施設に入居していました。幸いさほど被害は受けませんでした。しかし普段人工透析をしている病院で対応ができなくなっていて、仙台市内の人工透析の統括病院である社会保険病院へ夜中の24時過ぎに連れて行きました。
通勤路から見える海岸の松林はほとんど津波にのまれてしまったのか、やはり点々と何本かが残っているだけでした。
電気が復旧しテレビが観れるようになり、地震と津波の被害が明らかになるにつれ、未曾有の大災害だったことが改めて感じられました。
福島原子力発電所の放射能漏れも終始休むことなく報道されていました。
次第に人々からは祈りと心の救済が叫ばれるようになって行ったと思われました。
人智では及ばない運命に対して、人々は祈る
ことで何とか救われようとするのだと思いました。
そんな状況の中、私は1本の映画を観ました。それが今回紹介する愛と哀しみのボレロでした。
今回は前述の通り愛と哀しみのボレロを紹介します。
この映画は、やはりラストでのラヴェルのボレロをダンサーが踊るシーンが有名ですが、東日本大震災があった後この映画を観て、人々の運命や人生、祈りや願いとは何なのかを考えさせられました。
映画は1930年代から1980年代のヨーロッパやアメリカの歴史を背景に、芸術家たちの人生や家族を描いたものになっています。
それは戦争、ナチス、冷戦など、歴史の大きな流れに翻弄されながらも生きる4つの家族の親子2代、3代に渡る20世紀を描いた物語なのです。
人生には2つか3つの物語しかない
しかし それは何度も繰り返されるのだ
1981年パリでの国際赤十字が主催するチャリティ芸術祭で、バレエダンサーのセルゲイ・イトヴィッチがラヴェルのボレロをエッフェル塔前のステージで踊り始める場面から映画は始まります。ボレロのあのリズムが長く長く繰り返されます。
この芸術祭に参加した人たちは、運命によって導かれたように、今そこに集い同じ思いでボレロを全うしようとしているのです。
場面は1930年代後半に遡ります。
1936年モスクワ
ボルィショイ劇場ではバレエ団の次期プリマドンナ選考の最終審査が行われていました。
そこで落選したタチアナに声をかけたのは、審査員の1人のボリス・イトヴィッチでした。
まもなく2人は結婚します。
1937年パリ
フォリ・ベルジュール歌劇団がミュージカルを上演していました。劇団のオーケストラの中には若い女性ヴァイオリニスト、アンヌがいました。同じオーケストラでピアニストのシモンは演奏のたびにアンヌにアイコンタクトを送って来ました。やがて2人は恋に落ちて、まもなく結婚しました。
1938年ベルリン
この都市のある音楽堂では、新進気鋭の若手ピアニストのカール・クレーマーが独奏していました。それは見事な演奏でした。
演奏会のあと、ヒットラーはクレーマーを大いに賞賛し勲章を授与するのでした。
1939年ニューヨーク
ニューヨークの音楽ホールでは、ジャック・グレンが、ジャズ楽団ビッグバンドを指揮していました。彼は病院にいる妻にラジオ放送を通じてコメントを送ります。
ところが、突然、アナウンサーが臨時ニュースを発表します。
ドイツ軍がポーランドに侵略を開始し、ポーランドと同盟を結んでいる英国とフランスは、ドイツに戦争宣言を発し、ヨーロッパは戦争に突入しました。
ナチスはまたたくまに大陸ヨーロッパ全域に軍事的支配を拡大しました。パリも1940年の夏には制圧下に入り、ユダヤ人狩りを始めるのでした。
その後クレーマーは、軍楽隊長としてパリに派遣されます。戦闘行為や軍政には携わる必要がない任務でした。
それまでパリで穏やかな新婚生活を送っいたユダヤ人のアンヌとシモンそして赤児も虐待と虐殺で悪名高いマウトハウゼン収容所に送られることになってしまいました。
しかしシモンは、赤児だけはなんとか助けたいと考え、パリ郊外のある駅に列車が停車した際、線路に産着に包んだ男の赤児を降ろすのでした。
ドイツ軍は、1941年初夏にはソ連との協定を破棄して大規模な攻撃、侵略を開始しました。
タチアナと新婚生活を送っていたボリスも戦線に送られることになりました。モスクワに1人残されたタチアナは、まもなく男の子を出産します。
過酷な戦闘で多くの兵士が死んで行きました。タチアナのもとにも軍当局からボリスの戦死の報告が届来ました。
米軍のヨーロッパ遠征が始まり、グレンの住む町でも、多くの成年男子、とくに若者たちがヨーロッパ戦線に赴きました。
やがてグレンにも軍からの召集がかかり陸軍軍楽隊の指揮官としてヨーロッパに派遣されます。
大きな犠牲を払って海岸部の浜頭堡を確保した連合軍は、物量に物を言わせてドイツ軍を駆逐して行きました。そして8月にはパリを解放します。
パリを解放した連合軍は、市民たちから熱烈な歓迎を受け、グレンも軍楽隊長として戦勝パレードや行事の音楽を担当して雰囲気を盛り上げて行きました。
しかしナチスに協力した者たちは、解放後に悲惨な目に会うことになります。
ドイツ軍将校たちに媚を売り愛人となっていた若い女性シャンソン歌手エヴリーヌは、市民たちの非難を浴び、髪の毛を坊主にされパリを追われてしまいます。
彼女は、ドイツ人将校との間に生まれた乳児を抱いて故郷ディジョンに逃げ帰りました。
ドイツ軍楽隊のクレーマーは、連合軍に捕虜として捕えられ、しばらく捕虜収容所で暮らすことになりました。
1944年、マウトハウゼン収容所は連合軍によって解放され、アンヌはかなり衰弱していましたが、生き延びることができました。しかし夫のシモンは1年以上前にガス室に送られて処刑されていました。アンヌはシモンの処刑の日からヴァイオリンを弾くことをやめていました。
1945年アンヌはパリに生還しました。
その後パリ郊外の駅で列車から捨てた我が子を求め、その駅の近辺を尋ねて歩きましたが、愛児の消息は不明でした。息子の消息を知りたいという願いだけでアンヌは生き続けるのでした。
モスクワでは、タチアナの息子のセルゲイがソ連のバレエ界でまたたくまに頭角を現し、ソ連バレエ界の将来を担うトップエリートになって行きました。
捕虜収容所を出たクレーマーは、ベルリンに帰り指揮者として音楽活動を再開します。戦災から復興していくドイツとヨーロッパの音楽界で高い評価を受けるようになっていました。
アメリカに生還したグレンは、アメリカのジャズ界きっての有力者になっていました。
彼の息子は、富や父親の人気や人脈を踏み台にして有力な音楽界、テレビ、映画のプロデューサーになります。
妹は、父親の音楽家の才能を受け継ぎ才能にあふれる歌手になって行きました。
フランスのディジョンでは、エヴリーヌが追いつめられた末に自殺してしまいます。
深刻な罪悪感を背負ったエヴリーヌの両親、とくに父親は彼女の娘エディットを深く慈しみ大事に育てて行きます。
1961年の冬、エディットは故郷ディジョンを離れてパリに移り住むことにします。パリでは婚約者が待っているはずです。新しい人生に期待を抱いてエディットは列車に乗りました。
彼女が乗った車両には、アルジェリア戦線から帰還してきた若者たちがいました。
その若者の中に、ロベール・プラがいました。
彼はアンヌとシモンが線路に捨てたあの乳児だったのです。赤ん坊を見つけた牧師はその赤児を育て、やがて愛情あふれる里親を見つけます。それがプラ夫妻で、ロベールはプラ家で育てられたのです。
パリに出たエディットは結局、婚約者と会うことができず、大都会のなかでただ1人生きる道を捜し求め模索し続けることになりました。そしてテレビ局のアナウンサーや報道キャスターの仕事をするようになります。
1960年代半ばクレーマーはアメリカでの演奏ツアーを企画します。ヨーロッパ随一の指揮者の演奏会ということで、前売り券は完売、当日券も完売でした。
ところが観客はたった2人の有名な音楽評論家だけだったのです。
チケットは完売でしたが、アメリカのユダヤ人たちがすべてのチケットを買い占め、一般の聴衆観客が演奏会に来れないような妨害運動を組織していたのです。
ヒットラーと握手した音楽家をアメリカは受け入れない
しかしクレーマーは演奏を始めます。とても素晴らしい演奏でした。
アメリカでは、グレンの2人の子どもたちが音楽の世界で大きな成功を収めていました。ジェイスンは音楽プロデューサータとして。サラは歌手として。
フランスでの公演で大きな成功を収めたセルゲイは、フランスに亡命します。
芸術家として自由を渇望していたからでした。
モスクワでセルゲイの輝かしい成功を喜んでいた母親のタチアナはTVニュースで息子の亡命を知りショックのあまり倒れてしまいます。前の夫を戦争で失い、今また1人息子を冷戦の中で失ってしまったのです。
ロベールはエディットと出会い同棲していました。
しかしエディットは利己的な彼を見限って出て行きます。
そんな時、ある本から自分は里子として育ち本当の父母がユダヤ人で、第二次世界大戦中に強制収容所に送られる途中、列車から赤児だった自分を逃してくれたこと。そして本当の母親は、戦争後ずっと自分と別れた駅を訪れて行方を求めて回っていたことを知ったのでした。
ロベールは母アンヌの消息を知り、精神病院の療養センターにいる母に会いに行くのでした。
1981年、テレビキャスターのエディットは、国際赤十字から国際チャリティ音楽祭の企画への協力と参加を打診されます。エディットはこの企画の趣旨に賛同し、テレビなどマスメディアでチャリティ音楽祭への協力、参加を訴え始めます。
実行委員会は、ヨーロッパやアメリカの音楽家や芸術家に音楽祭への参加を要請しました。
アメリカではグレンの娘の歌手のサラに。ドイツでは最高の指揮者クレーマーに。そしてフランスではバレエダンサーのセルゲイに。
音楽祭のフィナーレは、ラヴェルのボレロの演奏と歌、バレエとのコラボということになりました。クレーマーがオーケストラを指揮し、サラが歌い、セルゲイが踊るというものです。
そしてサラはロベールの息子パトリック・プラという若者の歌唱と素直な表現力に注目しヴォーカルのパートナーとするのです。
音楽祭の当日、パリのエッフェル塔前の会場にはたくさんの人々が集まりました。
客席にはアンヌとロベール親子がいます。ステージには進行役でエディット。指揮者のクレーマー。歌手のサラとパトリック。そしてバレエダンサーのセルゲイ。
歴史に翻弄され、国も境遇も違う彼らが運命に導かれ今ここに集結したのです。
しかも同じ思いで。
音楽祭がフィナーレを迎えます。
クレーマーの指揮のもとエッフェル塔内のオーケストラがラヴェルのボレロを演奏始めます。
エッフェル塔前のシャイヨー宮広場のステージではセルゲイが踊り始めます。
ボレロのリズムが繰り返されます。
セルゲイが舞います。
タチアナ夫妻、グレンなどがテレビから我が子を見守ります。
観客席ではアンヌとロベール親子を始め多くの人々が見つめます。
エビィットがステージ脇から笑顔で見守ります。
やがてエッフェル塔のステージでは、拳を握ってから、サラが歌い出します。
セルゲイは舞い続けます。
パトリックがサラに続き歌います。
ボレロのリズムが長く長く繰り返され、セルゲイはさらに舞います。
愛を響け、
魂よ踊れ!
それは何かを昇華する踊りと歌声のようです。
ここに集まった人たちの思いが収斂され昇華されて行くようでした。
東日本大震災直後に、この映画と出会えたことに何かしらの運命を感じました。
過酷な運命に立ち向かい、こうして集った彼らが奏でたボレロはとても崇高なものに思えました。
もう深夜になりました。
シーはすやすや寝ているようです。
おそらくちょっとだけ舌を出しているはずです。
0コメント