シーと森の隠遁者 Part4
亡き王女のためのパヴァーヌ
「森」の樹々の間の、けもの道のような細い路を、雑草を踏みながら歩いていました。
僅かに霊香な草の匂いが漂っています。
頭上の樹々の隙間から、月の明かりを感じました。
すると、微かにピアノの音が聴こえて来ました。
歩むにつれて、徐々に明確になって来ます。
どこかかなしい曲でした。
「隠遁者」の赤く錆びたトタン屋根が、満月の光に晒されていました。
古い木造平屋建ての縁側の方から、ピアノの音が聴こえて来ます。
クラッシックの曲のようでした。
Ravelだわ
純子は、黒いキャップに、グレーのパーカー、デニムの半ズボンでした。
黒いキャップの下の、長い睫毛に二重瞼が、西洋人形のようです。
どことなく唇も潤っています。
満月の仄かな光が、さらに彼女を神秘的に魅せていました。
Ravel?
有名な作曲家
この曲は確か
「亡き王女のためのパヴァーヌ」
「隠遁者」が弾いているの?
おそらく
月の明かりに照らされた、縁側の軒下に、1mほどの背丈の茎葉の鉢が3つ置かれたままです。
終わりかけた夏の新月、夜の間だけ純白の花びらを拡げていました。
朝陽を見ることなく、萎んでしまう儚い白い花。
私たちは、庭の隅で、佇んだままピアノの音色を聴き続けました。
それは、繊細な美しくかなしい曲でした。
まるで、あの儚い純白の花のことを、奏でているかのように…
やがて、曲が終わりました。
一時沈黙が、あたりを包みます。
東隣の木造平屋建ての物置の下屋には、痩せた白い犬が伏せています。
私たちは、そっと近づきました。
傍には、いつも通りステンレス製の器が2つ置かれていました。
1つには、水が半分ほど満たされていましたが、もう1つは空でした。
ご飯どうしよう?
おそらく
もう食べたあとよ
近くの段ボール箱を覗きました。
小さな三毛猫のような2匹の仔猫が、柔らかそうなタオルの上で、寄り添って寝息を立てています。
そっと、立ち去ろとしました。
なるべく、足音をさせずにそっと…
すると再び、ピアノの音色が聴こえて来ました。
Ravelの同じ曲でした。
この曲が好きなのかな?
おそらく
私たちは、「隠遁者」の、月明かりに浮かび上がる古びた住居を、振り返りました。
錆びたトタン屋根、黒ずんだ柱、引き戸の玄関、縁側と木造りのガラス戸…
満月の光を浴びたそれらの光景が、美しくかなしいメロディと重なり合っていました。
足を止めて、再び、ピアノの音色に身を委ねました。
繋いだ純子の手に、僅かに力が込められました。
石鹸の香りがします。
ピアノの音色は、「森」に向かっているかのようです。
満月に光に包まれた「森」を、唯一の観客として…
頭上の樹々の隙間の月明かりを頼りに、細い路を、雑草を踏みしめながら歩きました。
「森」を抜けると、いつもの路端に、旧時代の残滓のような萎れた向日葵が、いくつか残されていました。
私は、弁護士になりたいの
突然、純子が呟きました。
萎れた向日葵の残骸を見つめる、黒いキャップの下の二重の瞳が、美しいと思いました。
どうして?
と尋ねようと思いましたが、言葉が出ませんでした。
彼も、むかしは弁護士だったのよ
「隠遁者」が?
そう
でも何かあったらしい
美しい瞳が、閉じられました。
月の明かりが、彼女を仄かに、照らしています。
アスファルトの路に、私たちの影が薄っすら映つし出されていました。
美しいピアノだったね
忘れられない
Ravelが好きになったよ
そうね
かなしそうだったけど
儚そうな純子の瞳が、潤んで見えました。
満月の夜に「森」が、厳然と浮かんでいます。
今でも、向こうで奏でられるピアノの音色が、聴こえて来るかのようです。
それは、「森」に向けられた、宇宙から降って来る音色…
秋風が、草むらの葉を揺らしました。
「森」の声を、聴こうと思いました。
純子とつないだ左手に、温もりを感じます。
「亡き王女のためのパヴァーヌ」は、純子の儚い瞳とともに、心に刻まれました。
母にお願いして、レコードを買おうと思いました。
南の空に、金星がひときわ赤く輝いていました。
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