シーと森の隠遁者 part5
キリストは再び十字架にかけられる
秋風が立ち始めた頃でした。
太陽が阿武隈山地に、厳かに隠れようとしています。
あたり一面に、黄金色の稲穂が拡がり、その中心に「一本松」がすくっと構えていました。
夕陽に紅く縁どられた太く黒い幹に凭れて「隠遁者」が、俯いて座っていました。
隣には、痩せた白い犬が静かに伏せています。
私は、黄金色の稲穂が拡がる田んぼの畦道から、彼を凝視しました。
以前のように、やはり本を読んでいるようでした。
ふと、痩せた白い犬が、頭をもたげました。
すると同時に、「隠遁者」も顔を上げました。
端正な顔が、夕陽を浴びています。
子供心に、それは儚く美しく見えました。
「隠遁者」が、すくっと立ち上がり、右手を上げて、軽く左右に振りました。
それは、私を歓迎し呼んでいる合図のようでした。
おそるおそる、畦道の雑草を踏みしめながら「一本松」へ向かいました。
「隠遁者」は、微笑んでいました。
やあ
ありがとう
シロにご飯を
初めて間近で見た「隠遁者」は、端正な顔立ちの中に、脆さと儚さを同居させているようでした。
最近テレビアニメで観た、貧しい少年が憧れている、苦痛に満ちてうなだれている男の絵を、思い起こさせました。
あまりにも美しいものには、逆に近づきがたいように、「隠遁者」にも、他者を寄せつけない月下美人のような、強く甘い香りが漂っているようでした。
ぼく1人ではなくて
純子ちゃんと一緒に
ご飯をあげたよ
そうかい
夜にだけ咲く
白い花が美しかった
月下美人だね
本当にありがとう
よかったら
これ食べないかい?
「隠遁者」は、焦茶色の四角い箱を、差し出しました。
包装された小さな四角いチョコレートが、きれいに並んでいました。
ありがとう
私は、無作為に1つ選ぶと、笑顔の「隠遁者」から逃れるように、急に踵を返して走り出しました。
輝く背丈ほどの稲穂に囲まれた畦道を、時々、足をもつれさせながら走りました。
動悸が激しくなり、頬を汗が伝わります。
なぜ「隠遁者」から、逃げてしまったのか?
自分でもよくわかりません。
怖かったのか、恐ろしかったのか、嬉しかったのか、恥ずかしかったのか?
でも1番は、おそらく眩しかったのです。
あの微笑んだ「隠遁者」を、ずっと見ていることができなかったのです。
遠くに「一本松」が、笠の付いた電気スタンドのように、夕陽を浴びて仄かに灯っているようでした。
包装されたチョコレートを解いて、口に放り込んでみました。
少しだけ苦くて甘い味でした。
小さな焦茶色の包装紙を、ズボンのポケットに、無造作に押し込みました。
すでに蛍光灯が灯る国鉄官舎の家に戻り、すぐに、茶の間の大きな箱型のテレビをつけました。
夢中になって観ていたアニメのある「世界名作劇場」が、ちょうど最終回でした。
ネロは、吹雪の中を歩いていました。
おじいさんが作ってくれた手袋も靴も、脱ぎ捨てました。
いつの間にかアントワープの街に、辿り着きました。
そして、教会へ向かいます。
教会は扉が開いていて、どうしても観たかったあのルーベンスの2枚の絵も、カーテンが開いていました。
ネロは、ようやくルーベンスの2枚の絵を、観ることができたのです。
マリア様ありがとうございます
これだけで僕はもうなんにもいりません
そこへネロの匂いを嗅ぎつけ、ネロの手袋を咥えたパトラッシュが、吹雪の中やって来ました。
ネロの顔を舐め、ネロの隣に横たわります。
パトラッシュ
お前は僕を探しに来てくれたんだね
わかったよ
お前はいつまでも僕と一緒だって
そう言ってくれてるんだね
ありがとう
パトラッシュ
僕は1番観たかった
ルーベンスの2枚の絵を観たんだよ
だからだからすごく幸せなんだよ
パトラッシュ疲れたろ
僕も疲れたよ
なんだかとっても眠いんだ
パトラッシュ
天から天使が降りて来て、ネロとパトラッシュは、一緒に運ばれて行きます。
ネロとパトラッシュは、おじいさんとお母さんのいる遠い国へと行きました。
もうこれからは、さむいこともかなしいこともお腹のすくこともなく、みんないつまでも一緒に楽しく暮らして行くことでしょう。
涙が、溢れていました。
あまりにも、悲しいと思いました。
ネロもパトラッシュも、なにも悪いことなどしていないのに…
ふと、ネロが最後に観たルーベンスの絵の中の、皆に支えられている男の顔が、「隠遁者」の夕陽を浴びた顔と重なりました。
「隠遁者」に感じたのは
この絵の男だったんだ
晩ご飯を終えると、純子のところに、すぐに行きました。
今日、「隠遁者」に会って感じたことを、どうしても話したかったのです。
純子は、2階の自分の部屋で、音楽を聴きながら本を読んでいました。
とても分厚い本でした。
東方の白い壁側に、ライト付きのスチール製の学習机が置いてあり、北方の窓のピンクのカーテンの下に、棚付きのベットが置かれています。
いつも通り、ベットに腰かけました。
机の脇の木製の本箱には、いろいろな本が並んでいました。
受験のための参考書や問題集、法律の専門書、女性向け雑誌、漫画雑誌、そしていろいろな小説の単行本…
レコードプレーヤーからは、あのRavelの「亡き王女のためのパヴァーヌ」が、流れていました。
FANTAオレンジの小瓶を2本持って、純子が部屋に戻って来ました。
グレーのトレーナーに、デニムのショートパンツです。
隣に座って、FANTAオレンジを渡してくれました。
まつ毛の長い二重瞼が、いつものようにお人形の瞳のようです。
石鹸の香りがしました。
やっぱり
とても美しい曲だね
そうね
今日、「一本松」で「隠遁者」に会ったよ
え
「一本松」で?
うん
犬と一緒に本を読んでいた
犬たちにご飯を
ありがとうと言われたよ
チョコレートももらったんだ
私は、ズボンのポケットから、しわくちゃになった小さな焦茶色な包装紙を出しました。
そう
彼と会ったのね
純子は、しわくちゃな焦茶色の包装紙を、シワを伸ばすように拡げました。
そして、スチール製の学習机の上で、その包装紙を折り始めました。
ちょうど、レコードの針が戻りました。
私は、立ち上がって、再び、レコードに針を落としました。
なんかさ
不思議なんだけど
「隠遁者」の顔が
「フランダースの犬」に出て来る
教会の大きな絵の男に、そっくりなんだ
ふふ
あの絵の、皆に支えられている方は
イエスよ
純子は、微笑んで、焦茶色の折鶴を差し出しました。
スチール製の学習机の上の、分厚い本のタイトルが、ちらっと見えました。
「キリストは再び十字架にかけられる」
ゆうちゃん
お風呂まだでしょ?
うん
一緒に入ろうか?
え?
びっくりしました。
瞬時に、心臓の鼓動が聞こえて来るようでした。
両方の耳が、熱く感じられます。
純子のショートパンツから伸びる白くてしなやかな細い脚を、ちらっと見てしまいました。
ハハ
冗談よ
恥ずかしくて無理
本気にした?
ゆうちゃん
顔紅くなってない?
ハハハハ
純子の家を出ても、まだ鼓動が止まりません。
石鹸の香りも残っています。
笑った純子の顔が、眩しくてよく見れませんでした。
空を見上げると、満天にたくさんの星が散りばめられていました。
ぐるっと見渡しても、月の姿がありません。
今夜もどうやら、月のない夜でした。
不意に、真夏に死んでしまったカナエのことを思いました。
プールの帰り道、一緒に、ソーダ味の棒アイスを食べました。
カナエもネロもパトラッシュも、死んでしまった…
なぜ?
星明かりの下に、「森」が見えました。
厳かに佇んでいます。
私は、目の前のカーテン越しに明かりの灯る家には戻らず、惹かれるように「森」に向かいました。
暗闇を彷徨うように、暗いけもの道のような細い路を、雑草を踏みしめながら歩きました。
草の香りがします。
やがて、この前と同じように、ピアノの音が聴こえて来ました。
同じ、Ravelの「亡き王女のためのパヴァーヌ」です。
「森」全体が、コンサートホールのように響いていました。
樹々が、共鳴しています。
立ち止まって、「森」の声に、耳を澄ましました。
「森」を抜けると、ピアノの旋律は、さらにはっきり聴こえて来ました。
やはりそれは、「森」へ向けて奏でられているようでした。
縁側の軒下の、3つの1mほどの背丈の茎葉の鉢のうち、ちょうど真ん中に、あの純白の花が1輪だけ咲いていました。
真ん中に大きく飛び出した雌しべがあり、大きな花びらが重なり合って開いています。
まるで、天女がまとう薄絹の衣のような、繊細な花びらです。
「亡き王女のためのパヴァーヌ」の旋律は、この儚い白い花のことも、語っているようでした。
すると突然、純白の花に、小さな黒いものが飛んで来ました。
しばらく花の前で、ばたばた翼を拡げていましたが、すぐに錆びたトタン屋根の上の方へ、飛んで行ってしまいました。
それはどうやら、コウモリのようでした。
コウモリも、ピアノの音色と、純白の美しい花に惹かれてやって来たようでした。
ピアノの音が、止みました。
沈黙が、あたりを包みます。
「隠遁者」の顔が、浮かんで来ました。
同時に、ルーベンスの絵の苦痛に歪んだイエスの顔も、浮かびました。
「キリストは再び十字架にかけられる」
純子の部屋で見た本のタイトルも、浮かんで来ました。
イエスは、人間の罪を背負って十字架にかけられたと教えられたけど
再び、十字架にかけられるの?
再び、ピアノの音色が聴こえて来ました。
やはり「亡き王女のためのパヴァーヌ」でした。
なぜか「隠遁者」が、十字架にかけられ、あの端正な顔が苦痛に歪む映像が、浮かんで来ました。
ゆうちゃん
突然、純子の声が聞こえました。
振り向くと、仄かな星明かりに浮かんでいる美しい瞳の純子が、微笑んでいました。
また1人で来たのね
うん
だって
月のない夜だったから
私たちは、手を繋いで、「隠遁者」が、純白の花や「森」のために奏でるピアノの音色に包まれ、朝には萎んでしまう純白の花を眺めました。
イエスは、再び十字架にかけられる
そんな予感がしていました。
満天の空には、たくさんの星たちが、はるか彼方から光を放っていました。
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