シーとマリア Part10
糸雨
雲ひとつない暗灰色の空に、覆われていました。
糸雨が、寂しげです。
朝からしっとりと雨が続いて、シーは、東窓の古びたカーテンを捲って、地袋の上から長い間、外を眺めていました。
深夜になり、ようやく雨足が弱まりました。
シーは、両側に白い高砂百合が咲くアスファルトの通路を、走り出しました。
焦茶色のクロックスを履いた私も、足を縺れさせながら続きます。
片手に持ったiPhoneからは、Ravelの「亡き王女のためのパヴァーヌ」が、流れています。
垣根付きのコンクリートの歩道に出ました。
垣根は、刈り込み作業が行われ、散髪したあとのように短く整えられています。
垣根に沿って咲いていた、シーがいつも顔を埋めて匂いを嗅ぐ、鮮やかな紫色の松葉菊も姿を消しました。
しかし、それでもシーは、露わになった垣根の根元に鼻をつけて、匂いを嗅ぎ始めます。
歩道沿いの自動販売機まで来ると、垣根の上を覗きました。
先日、層積雲が空を埋めつくし、薄暗いむかしのトーキー映画のようだった午後…
コンクリートの歩道の上に、1匹の黒いアゲハチョウが、力尽きていました。
脈が並ぶ大きな黒い翅(はね)に、小さなオレンジ色の斑点のあるクロアゲハチョウでした。
私は、左手でその儚そうな黒い翅をつまんで、すぐ脇の垣根の上へ運びました。
つまんだ瞬間、わずかに翅を動かしました。
まだ生きていました。
垣根の密集した葉の上で、時々、風によってて微かに翅が動きます。
ちょうど、層積雲の隙間から太陽が顔を覗かせ、垣根の葉と黒いアゲハチョウが、光に包まれました。
緑の葉のベッドの上で、夏の光が奇跡のように、透き通った脈のある翅を、白く輝かせていました。
雨の上がった翌々日の朝。
東の空に、低く横長の雲が紅く染まり、住宅街の瓦やスレートなど様々な屋根が、朝陽を浴びていました。
朝陽で輝く密集した葉の上に、半分翅を閉じた美しいクロアゲハが、そのまま佇んでいました。
しかし、もはや翅を拡げることはありません。
風によって一瞬、羽ばたくだけです。
それからもクロアゲハは、ずっと垣根の葉の上で、風に揺られていました。
しかし、刈り込み作業によって、それまで包んでくれていた葉っぱたちとともに、捨てられました。
誰もそんな垣根の上に、クロアゲハが風に揺られているなんて知りません。
クロアゲハの翅が、太陽の光で、透き通って見えることを知っていたのは、私とシーだけです。
自動販売機で、缶コーヒーとC.CLemonを、買いました。
Ravelの「亡き王女のためのパヴァーヌ」が、月明かりも、星々の輝きもない暗灰色の夜空に向かって、奏でられていました。
ほとんど濡れることのない、糸雨は、それでも私たちに、降り注いでいました。
ふと、「森」を思いました。
LIDヘッドライトが、濡れたアスファルト道路を、鮮やかに浮かび上がらせています。
暗闇に浮かぶオレンジ色のスピードメーターの数字は、80キロを示し、BMWサウンドが、心地良く鳴り響いていました。
雨の仙台七夕まつりの帰り道。
シーは、疲れたのか助手席の私の胸の中で、ぐっすりと寝ていました。
私は、ネコの耳付きキャプをかぶるマグダラのマリアに、再度、質問しました。
金髪の王子さまは、自殺したの?
そして彼女は、仄かなオレンジ色に縁どられた美しい顔に、悪戯を楽しむ小悪魔のような微笑みを浮かべました。
私の質問に正解したら、答えてあげてもいいわ
村上春樹の「風の歌を聴け」に
登場する人物の中で
私が1番気に入っている人物を
ずばり当てなさい
翌日、東窓の古びたベージュのカーテンの右上に、採光によって、白く輝く丸い円が映し出されました。
まるで小さな太陽が、カーテンから、新たな光を発しているようです。
そんな光景を、布団の上から眺めながら、「風の歌を聴け」を、10数年振りに読みました。
マグダラのマリアから出された課題。
とても難しい課題です。
「風の歌を聴け」か?
小学生の頃、太平洋沿いの田園が拡がる小さな町の、国鉄官舎に住んでいました。
すぐ裏には、竹と広葉樹の「森」がありました。
そして「森」には「隠遁者」と呼ばれていた男が、痩せた白い犬と暮らしていました。
満月や新月の夜には、朝陽を見ることなく萎んでしまう純白の花が、強く甘い香りを放って咲きました。
それはまるで、天女がまとう薄絹の衣のような、繊細な花びらでした。
また、夜になると「隠遁者」は、よくピアノを弾きました。
Ravelの「亡き王女のためのパヴァーヌ」が、「森」に向けて奏でられます。
未熟な心ながら「森」の声を聴かなくてはと、思いました。
姉のように親しかった弁護士志望の高校生の、スチール製の勉強机に、分厚い本が置かれていました。
「キリストは再び十字架にかけられる」
そういえば、「隠遁者」は、「フランダースの犬」の最終回で、ネロがようやく観ることができたアントワープ大聖堂のルーベンスの「キリスト降架」の絵のイエスの顔に似ていました。
濡れることのない、糸雨が、暗灰色の空から落ちて来ます。
Ravelの「亡き王女のためのパヴァーヌ」が、薄暗闇を包みます。
シーは、じっとしていられず、早く歩き出したい様子でした。
「風の歌を聴け」の登場人物の中で
誰を1番気に入っているか?
「星の王子さま」のキツネは、別れ際に、王子さまへの贈り物として、秘密を教えてくれました。
いちばんたいせつなことは、目に見えない
なんとなく答えがわかって来ました。
当たる確率は、おそらく50対50。
マグダラのマリアに、LINEを送りました。
答えは、鼠
茶の間の白い灯りの蛍光灯の下で、シーは、布団の枕の下あたりに横になって、寝息を立てています。
布団を横に占領しているので、私の寝るスペースが奪われてしまいました。
東窓の地袋に腰かけて、アサノスーパーで買った、通常のカップラーメンよりもお得なカレー味を、アサヒの糖質0ビールとともに啜りました。
まだ送ったLINEは、既読になっていません。
もう遅いので、寝てしまったのかもしれません。
彼女には、少なからず秘密があります。
しかし、まだ何も語ってくれません。
白い灯りに照らされた白とゴールドの体毛が、仄かに輝いています。
舌が、ちょっと出ています。
シーは、寝ている時も、ちょっとだけ舌を出します。
「星の王子さま」のキツネは、王子さまに言いました。
きみのバラをかけがえのないものにしたのは、きみが、バラのために費やした時間だったんだ
シーと暮らしてもう4年。
シーと暮らした時間は、かけがえのないものです。
きみが星空を見あげると、そのどれかひとつにぼくが住んでるから、そのどれかひとつでぼくが笑っているから、きみには星という星がぜんぶ笑っているみたいになるっていうこと
きみには、笑う星々をあげるんだ
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