シーと森の隠遁者 Part6
赤い傘
秋霖。
空は雲ひとつない暗灰色で、覆われていました。
焦茶色の鉄製のベランダの手すりには、雨水が次から次へと新たな玲瓏な玉を造っては、滴り落ちます。
前方の白いコンクリート造りの建物の、2階の純子の部屋は、明かりがなく、ピンク色のカーテンがぼんやり霞んでいました。
まだ寝るには早い時間です。
純子は、まだ1階の茶の間で、テレビでも観ているのかと思いました。
糸のような雨が、降り続いています。
眼下の白いコンクリート造り柵に囲まれた10畳ほどの庭には、濃い紫色のクレマチスの鉢が2つと、ピンク色のコスモスが群がるように咲いていました。
雨の中、クレマチスは、1つの鉢からいくつもの、6片の鮮やかな濃い紫色の花びらを拡げています。
一方、ピンク色のコスモスは、普段は乙女が誰かを想うような表情を浮かべて、可憐に花びらを拡げていますが、今夜は、少し悲しそうにうな垂れていました。
しばらくすると、この雨の中に、白っぽい犬がぼんやり見えました。
ちょうど私の家の庭の前を、行ったり来たりし始めます。
あれは
「隠遁者」のシロ?
階段を下り、庭に面している茶の間の両親に気づかれないように、静かに裏の玄関から外に出ました。
細雨が、綿々と降っています。
官舎を西側から回って表に出ると、白いコンクリート造りの柵の前で、雨に濡れたシロがうろうろしていました。
しかし、私の姿を認めると、立ち止まってじっとこちらを窺います。
シロどうしたの?
小声で問いかけると、シロは、私の方へ向かって来ましたが、そのまま脇をすり抜けました。
そして、官舎の西の、夏には向日葵を眺めていたアスファルトの路から、裏の「森」の方へ、足早に向かいました。
待って
私は、子供用のブルーの傘を開いて、すぐに痩せこけてしっぽを下げたままのシロを、追いかけました。
「森」は、真っ暗です。
雨を含んだ樹々の葉や枝の隙間から覗く夜空は、暗灰色でした。
雨が語りかけ、樹々は黙って頷くようです。
霞んで見えるシロの白い後姿を頼りに、濡れた雑草を踏みしめながら歩きました。
藍色のスニーカーが、雨水を吸収します。
雨と草の匂いがします。
雨音に混じって、僅かにピアノの音色が聴こえたような気がしました。
Ravel?
「森」を抜けると、音色が幻聴ではなく、はっきり聴こえて来ました。
やはり「隠遁者」が、「森」に向けて奏でているようです。
今日も「亡き王女のためのパヴァーヌ」
糸のような雨が、錆びたトタン屋根を鍵盤として、指を乗せているようです。
まるで、古い木造平屋建ての建物がピアノとなって、音色を奏でているようでした。
シロは玄関先まで来ると、東隣の同じく錆びたトタン屋根の物置の下屋へ、向かいました。
あれ?
玄関の軒下の、木造の引き戸のすぐ左脇に、木製の柄の赤い傘が立てかけられています。
見たことのある傘でした。
これは
純子ちゃんの傘?
やや斜めに立てかけてある木製の柄の赤い傘は、確かに彼女の家の傘立てにあったものでした。
雨の日、学校から帰って来た赤い傘の姿を、見たこともあります。
まさか?
「隠遁者」の木造平屋建ての縁側の奥の部屋の方から、ピアノの音色が聴こえます。
雨音に混じって、「亡き王女のためのパヴァーヌ」が、聴こえて来ます。
しばらく、ブルーの傘に当たる雨音と、ピアノの音色を、映画のワンシーンみたいに感じながら聴いていました。
なぜ
純子が「隠遁者」のところに?
やがて、傘に落ちる雨音だけになりました。
微かに、純子の笑い声が聞こえたような気がしましたが、幻聴だったかもしれません。
私は、シロのいる東隣の木造の物置の下屋に行きました。
シロは、雨の吹き込まない下屋の中頃あたりに伏せて、すやすや寝ています。
すぐ傍の黒ずんだ地面に、直接座りました。
下屋の屋根からは、雨滴が定期的に落ちて来ます。
純子を待とうと思いました。
再び「亡き王女のためのパヴァーヌ」が、雨音に混じって聴こえて来ました。
小学校2年生になった春。
父が、たくさん童話の絵本や子供図鑑を、まとめて買ってくれました。
童話のいろいろなお話しと不思議な世界、図鑑の中の、動物や昆虫などの様々な色や形や生態に、すっかり夢中になりました。
なかでもバージニア・リー・バートンの絵本「ちいさなおうち」が、お気に入りでした。
そしてもひとつ、決して忘れられなかったのが、「星の王子さま」でした。
そこには、いろいろな大切な言葉が散りばめられていました。
キツネが、王子さまに秘密を語ります。
いちばんたいせつなことは、目に見えない
最後に王子さまは、地球に来てちょうど1年目の日に、ヘビに噛まれ、魂だけ赤いバラの待つ星へ帰って行きました。
子供心に、それはとても不思議なことでした。
魂だけ帰るということは
天国に行ったことと同じなの?
どれだけ待ったのかはわかりません。
もう眠くなって、瞼がとても重くなっていました。
うとうとしていたのかもしれません。
ゆうちゃん
突然、声が聞こえました。
目を開けると、月を隠す薄雲のような表情の純子が立っていました。
グレーのトレーナーに、デニムのズボンを履いています。
ゆうちゃん
どうしたの?
とても儚く美しい二重瞼の瞳でした。
待ってたんだ
バカね
風邪ひくわよ
純子の華奢な腕に、包まれました。
下屋の外の、一面暗灰色の夜空を見上げました。
まだ不思議なほどの、細い糸のような雨が降っています。
それ以上、何も言えませんでした。
帰ろう
純子は、木製の柄の赤い傘を拡げて、私の手を握りました。
とても、優しさに満ち溢れた温もりでした。
すでに、ピアノの音色は聴こえません。
傘に落ちる雨音だけが、耳に残ります。
石鹸の香りがしました。
雨に濡れた「森」が、暗灰色の空の下、大きな黒い翳に見えました。
私たちは、赤い傘の下、「森」へと向かいました。
いちばんたいせつなことは、目に見えない
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