シーと森の隠遁者 Part7



ウミガメの涙


秋霖の合間の朝…

朝陽が景色を、輝かせています。
ようやく、ウミガメが産卵で流す涙のような澄み切った空が、拡がりました。

祖父が買ってくれた子供用のブルーの自転車に乗って、カナエの家に向かいました。
この夏、死んでしまったカナエの家へ…

言葉にすれば、遠ざかる

いちばんたいせつなことは、目に見えない

国鉄「山下」駅前の、些細な商店街を過ぎました。
西の田んぼの中で構える「一本松」の方へ、右折してすぐのところにカナエの家はあります。
あたりの田んぼは、黄金色の稲穂が、重たそうに頭を垂れています。
透き通った朝の風を感じながら、自転車を漕ぎました。

ここ山元町山下地区は、太平洋沿岸の農家の割合が高い小さな農村です。
海が近く、防風林の松林から、田んぼや畑が山麓まで拡がっています。
とくに、特産の「亘理いちご」のビニールハウスが、そこかしこに見られます。

また、このあたりの土壌は、砂地が多く、私の住んでいた国鉄官舎の庭も砂地でした。


カナエの家も、松林に囲まれた敷地に、砂地の広い庭がありました。
門のない入り口から、じっと中を窺いました。

朝陽に薄い赤色の瓦屋根が反射して、眩く映えています。
白い壁の洋風作りの平屋建てです。
中央に玄関があり、左右対称の部屋が翼を拡げたようです。
左側の窓のピンク色のカーテンが引かれ部屋が、カナエの部屋でした。

また、母屋の東隣には、大きめの物置があり、下屋にはピンク色の子供用の自転車が、ひっそりと置かれていました。
朝陽を浴びて、ハンドルの一点が白く輝いています。

カナエちゃんの自転車だ


今年の夏。
カナエが亡くなる10日ほど前…

私たちは、海まで自転車を漕ぎました。
しかも、すぐ傍の浜辺ではなく、北へ数キロ離れた「サンライズビーチ」と、呼ばれていた浜辺でした。
とても夏の太陽が、眩しい日でした。

そこは「大排水」の河口にもなっていて、松林には、小さな別荘地もありました。

このあたりの海は、波が荒く遊泳禁止になっています。
夏でも訪れる人は、そんなに多くありません。

海は蒼く澄んで広大です。
ほんの僅か湾曲した水平線まで、眩く輝いていました。
白い飛沫を上げて、終わるこのない波が押し寄せます。
人類の叡智も無にしてしまう、大きさと深さがありました。

大きいなー

浜辺には、様々なものが流れ着きます。
とくに白いものと黒いものが目立ちます。
白いものの大半は、発泡スチロールの塊。
黒いものは、プラスチック製のブイです。
ハングル文字の瓶やロープや網も目立ちます。
とくに面白そうなものを見つけては、批評し合いました。

また、白っぽい大きな巻貝の殻を、耳に当てました。
ボーっと風の音がします。

少し離れた砂浜の中頃に、大きな燻んだ色の塊が砂をかぶっていました。
近づくと大きなウミガメでした。
甲羅が破損し、たくさんの傷がついています。

ウミガメは、よく「泣いて」います。
それは、眼球の背後に、肥大化した涙腺が存在し、これにより体内に取り込んだ余分な塩分を濾過し、常に体外に放出することで体内の塩分濃度を調節しているからです。

この時の、砂をかぶって動かないウミガメの閉じられた瞳にも、涙の跡がありました。

かなしそう

カナエは、そう呟きました。


それから、「大排水」河口の浅瀬になっている場所で、デニムの半ズボンの私と、ピンクのミニスカートのカナエは、膝上まで浸かって遊びました。

しかし私は、石ころに躓いて転んでしまいました。
全身びしょ濡れです。

ゆうちゃん
ドジだなー
アハハハ

お下げ髪のカナエは、楽しそうに笑いました。
しかしカナエは、何でも私の真似をしたがります。
すぐに、おどけてよろける振りをしながら、そのまま水面に倒れ込みました。
飛沫が上がりました。

キャハハハ
冷たくて気持ちいい

やはり、お下げ髪から全身ずぶ濡れです。
顔や腕や脚から、いくつも水滴が滴り落ちます。
白いTシャツが、わずかに膨らんだ胸に張り付いています。

眩しい

カナエの笑顔は、夏の日差しを浴びて、とても眩しい美しさでした。
まるで、儚い月下美人のようです。

そして、その10日後、ほんとうに花のように死んでしまいました。
ウミガメと同じ涙を流したのかは、わかりません。


突然、家の中からピアノの音が聴こえました。
一瞬で、現実の世界に戻りました。
聴いたことのある曲です。

Ravelの「亡き王女のためのパヴァーヌ」?

びっくりしました。
いつも「森」に向けて「隠遁者」が奏でるあの曲です。

なんで
カナエちゃんの家から?

ふと、カナエがピアノを習っていたことを思い出しました。
しかし実際、カナエがピアノを弾いているのを、見たことも聴いたこともありません…

曲が終わりました。
「森」を感じました。

誰がピアノを?

しばらくすると、海のように青い玄関扉が開きました。

カナエの母親です。
肩よりやや長い豊かなストレートの黒髪に、白いインナーにイエローのカーディガン、やや赤っぽい刺繍のフレアスカートでした。
長い睫毛に涼しげで上品な顔立ちは、カナエにそっくりです。

すぐに、ブルーの自転車にまたがっている私に気づきました。

あら
ゆうちゃん
おはよう
どうしたの?

ちょっと
「一本松」まで行こうと思って

なら
ちょっと
これを見てくれない?

少し距離があったので、いくぶん大きな声でしたが、透明感のある優しい声でした。

広い砂地の庭の手前側に、白とピンク色の花が並んで、いくつも咲いていました。
どちらも中心に長い雌しべが突き出て、細い花びらを拡げています。
とても可憐で、美しい花でした。

カナエが大好きだった花よ
ネリネというの

カナエの母親は、長くて細い指で艶やかな黒髪をかき上げ、長い睫毛の瞳で、花たちを見つめました。

花びらに日が当たると
宝石のようにキラキラ輝くから
ダイヤモンドリリーとも言うの
きれいでしょ?

うん

確かに、太陽の光を浴びた白とピンク色の花びらが、反射してキラキラ輝いているようでした。

カナエの母親は、いくぶん眩しそうに目を細めました。
何かとてもいい香りがします。
純子の石鹸の香りとは違う、大人の甘い香りです。

また会う日を楽しみに
この花の花言葉……

突然、背中に両手が回り、抱きしめられました。
びっくりしました。
さらに甘い香りがします。

ごめんなさい
カナエは
ゆうちゃんのことが好きだったの
忘れないであげて

はい

さらに、腕に力が込められました。
純子とは違う、大人の女性の温もりです。
優しさと艶やかさに満ちた温かさです。
なぜかしら、鼓動が激しくなりました。

ピアノは
おばさんが弾いてたの?

ええ
カナエが、とくに好きだった曲よ

カナエの母親は、腕を緩め私の顔を覗き込みました。
じっと見つめます。

かなしい曲なのにね
カナエは好きだった

長い睫毛の瞳が、潤んでいます。
澄んだきれいな瞳でした。

またいつでも
花を見においで
待ってるから


東の夜空に、「ペガススの4辺形」が、確認できました。
雲のない空に、無数の小さな星たちが、遥か彼方から光を届けています。

「森」の枝や葉の隙間からも、星は見えました。
草の匂いを嗅ぎながら、けもの道のような細い路を、雑草を踏みしめながら歩きました。

今日も「隠遁者」が、「森」に向けてピアノを奏でています。
やはり、Ravelの「亡き王女のためのパヴァーヌ」です。

「森」を抜けてから「隠遁者」の庭には入らず、そのまま佇んで音色に身を委ねました。

毎日「隠遁者」は、カナエちゃんのために
「森」に向けて弾いていたんだ

まるで「隠遁者」の古びた木造家屋が、大きなピアノとなって、音色を奏でているようでした。
目に見えない力に抗うかのように、「森」に向けて、何かを訴えているようです…
澄んだ涙の鎮魂歌。

みんな「隠遁者」と嘲り笑うけど、改めて、こう呼んでみたいと思いました。

あなたは「森の隠遁者」

純子の学習机に置かれていた分厚い本のタイトルが、浮かんで来ました。

キリストは再び十字架にかけられる




シーズーと一緒に映画

愛犬シーズーのシーと毎日iPhoneで映画を観てます 私が観て来たたくさんの映画を紹介いたします

0コメント

  • 1000 / 1000