シーとマリア Part12



マリアのキス


雲ひとつない一面薄灰色の空でした。
ひとつのイタズラ書きもない、薄灰色の色彩だけが拡がっています。

世界中を停止させたように、すべての景色が止まって見えます。
音さえも聞こえません。
世界の終末は、こんな朝かと思いました。

焦茶色の有機質を含んだ土に覆われた庭に、唯一の金木犀は、まだつぼみのままです。
やがて、オレンジ色の小さな花たちが、甘く強い香りを放ちます。

今日は、待ちにまったマグダラのマリアと外食です。

17時に、仙台市中心部の「MEALS」(ミールズ)というイタリアンレストランで、待ち合わせでした。
シーにとっては、七夕まつり以来の仙台です。


仙台駅は、東北の中心都市らしく3階建ての大きな駅舎です。
2階の中央改札口を通り、シーを入れていたキャリーバックを、コインロッカーに預けました。

2階の中央正面玄関を出ると、ペデストリアンデッキが広がっています。
このデッキから、広瀬通り、青葉通り、南町通りへ、そのままアクセスすることができます。

変りなく、薄灰色の空で覆われていました。
コインロッカーから抱っこしていたシーを、地面に下ろしました。
ようやく自由になれたシーは、さかんにしっぽを振って、今にも走り出したい様子です。

土曜日とあって、仙台駅構内もペデストリアンデッキも、たくさんの人で賑わっています。
多くは、休日を過ごす人たちのようです。
平日と違い、背広姿は疎らでした。
もう9月も中旬になり、一応に長袖の衣類を着ています。
東北の夏は、短いです。

今晩予約してある「MEALS」は、青葉通りを真っ直ぐに西へ向かい、晩翠通りの交差点からすぐのところです。
ペデストリアンデッキを、青葉通りの方へ向かいました。

すれ違う人たちは、シーを一瞥し、興味を示す者、無関心な者と様々です。
シーは、普段の散歩とは違い、匂いを嗅いだりせずに、人混みの中を平然と真っ直ぐ歩いてくれました。

青葉通りへは、エスカレーターを下ります。
危ないので、シーを抱っこしました。
抱っこが嫌いなシーは、すぐにイヤイヤするので、ぎゅーと強く抱きしめました。

青葉通りに出ると、すぐ右側のビルは、去年閉店した老舗デパートの「さくらの百貨店」です。

今年の冬、このデパートの青葉通りに面した正面玄関のすぐ脇に、1人の浮浪者の老人が暮らしていました。

その時、シーが無邪気に浮浪者の老人に近づくと、老人は貴重なおにぎりを差し出しました。
シーと浮浪者の老人との間で、無言の会話が交わされました。

ずっと微笑むことを忘れてしまったはずの老人が、ほんの一瞬だけ、微笑んだように見えました。

その後間もなく、その浮浪者の老人は、百貨店の前から消えました。
もはや、どこへ行ったのかわかりません。

ちょうど、老人が腰掛けていたあたりを通ると、汚れた黄色の葉っぱがいくつか重なり合って、風に揺れていました。
もう誰も、冬空の下、そのような場所で1人の人間が、暮らしていたことなど覚えていません。

私とシー以外には…


しばらくすると、シーにやや疲れが見えて来ました。
もう駅から、15分ぐらい歩いています。

一番町商店街のアーケードの中で、シーは、腹ばいになりました。
 しばしの休憩です。

正方形の赤いベンチのようなものが設置されていていました。
そこに腰掛けて、携帯用のピンクのプラスチック容器に、ペットボトルの水を注いで飲ませました。

多くの通行人は、珍しそうに、一瞥して通り過ぎます。

およそ10分ほどの間に、2人の年配の婦人が、声をかけてくれました。

あら
おとなしわねー
何歳なの?


17時少し前に、イタリアンレストランの「MEALS」に、着きました。

クリーム色の壁に、正面の大きなウインドウからは、中がすっかり見えました。
天井は、むき出しになっていて、いくつかのライトが店内を仄かに照らしています。

夜景を楽しめる窓ぎわのテーブルに、通されました。
シーは、すぐにグレーの床に腹ばいになりました。
店内の薄いクリーム色の壁には、何枚かのモダンアートの絵が飾られていました。

大きなウインドウからは、仙台の夕暮れ時の風景が眺められます。
雲が流れ、薄暗い空にようやく青空が見えました。
西の空のうろこ雲が、いくぶん紅く染まっています。

晩翠通りは、車が絶え間なく行き交います。
大都市の喧騒です。
杜の都が、夕闇に包まれ始めました。

すると、北の方から晩翠通りの歩道を、こちらに向かって歩いて来る女性が見えました。

薄手の薄いピンク色のロングコートに黒と白のボーダーのワンピース、黒いショートブーツを履いています。
髪は黒髪のショート。
マグダラのマリアでした。
やはり奇跡的な美しさです。

店に入ると、すぐに窓ぎわの私たちに、軽く手を振ってくれました。

こんばんは

こんばんは
シーちゃん

彼女は、疲れて寝息を立てていたシーに声をかけました。
しかしシーは、ほんの僅か両耳を持ち上げただけでした。

ふふふ
シーちゃんお疲れね

彼女は、薄いピンク色の薄手のコートを脱ぎました。
生地の良さがわかるニットの黒と白のボーダーのワンピースは、お腹の両脇が大きくえぐられたように穴が開いていて、思わずハッとさせられました。
いつも通り、耳には白い花形のVan Cleefのピアス、首にも白い花形のVan Cleefのペンダント。
そして、クロエオードパルファムの香り…







料理は、コースを予約していました。
私は、ブラウマイスタービールを頼み、彼女は、アップルミントソーダを頼みました。

飲み物が運ばれて来る間、デニム生地の散歩用ショルダーバックから、カリカリご飯を、携帯用のピンクのプラスチック容器に入れました。
すると、シーは起こしもしないのに、耳をピクッと持ち上げ、素早く起き上がりました。

あら
シーちゃん起きたわ

ご飯とか
散歩になると
超能力者みたいに敏感にわかるんだ

ふふふ
可愛いわね
私も負けないようにデブ活するわ

彼女は、自分の子供を見つめるママのような優しさに満ちた眼差しで、シーをじっと見つめました。

飲み物が運ばれて来ました。

では
カンパイ

脇目も振らずに、カリカリご飯を食べているシーに向けても、グラスを傾けました。

ところで
LINEの答え見てくれた?

はい
見ました
どうして鼠だと思ったの?

それは鼠が
1番弱い人間だったから

自信がなかったので、おそるおそる答えました。
すると、照明に照らされ黒髪がいくぶん茶色に見える彼女は、西洋人形よりも美しい微笑みを浮かべました。

そう
当たりよ
鼠が正解

私は、ふうと息をつき、ブラウマイスタービールに口をつけました。

よかった
やっぱり鼠だったんだね
なら正解なんだから
金髪の王子さまが自殺だったか?
教えてくれる?

すると彼女は、以前よりも伸びた右サイドの前髪を垂らしながら俯き、一瞬にして微笑みを失い、曇った表情を浮かべました。

ごめんなさい
その前にお願いがあるの

え?

意外な言葉に、ちょっと驚きました。
少しブラウマイスタービールを飲みました。

うん
なんでも言って

ありがとう
実は、私の父親のこと
とても変わった人だったらしいけど
どうやらまだ生きているらしいの
しかも軽井沢で

え?
軽井沢

ちょうど、最初の料理が運ばれて来ました。
おかみさんのような和かで優しい雰囲気の女性が、料理のレシピを告げました。

桃とモッツァレラチーズのカプレーゼ でございます

マグダラのマリアは、料理を一瞥しただけで話しを続けました。

軽井沢のどこにいるのかは
わからないけど
できたら軽井沢まで
一緒に行ってもらえない?

長い睫毛の大きな瞳が、じっと私を捉えています。
ベージュの瞳が、美しいと思いました。

もちろん
いいよ
軽井沢は大好きだし
でもシーは、残して行けないから
シーも一緒だけど?

ありがとう
ほんとうにありがとう
シーちゃんが一緒なら
さらに嬉しいわ

彼女の顔が、迷子で泣いていた少女が、親と再会できた時のように、一瞬で明るい表情に戻りました。

テーブルの脇では、カリカリご飯を食べ終えたシーが、まだ物足りなそうに私を見上げています。
シーもまた、彼女に負けないぐらいの大きな瞳でした。
シーの頭を、そっと撫でてあげました。

父の生まれは
太平洋沿いの田園の拡がる農村なの
弁護士をしていたらしいわ

弁護士?

びっくりしました。
身体に、電気が走ったようです。

マグダラのマリアの父が
弁護士だって?

3分の1ほど残ったビールを、一気に飲み干しました。
天井の照明が、少し眩しく感じました。

その太平洋沿いの田園の拡がる農村は
何という町?

そこまでは聞けなかった
私の母は
基本的に父のことは
話したがらないから

ブラウマイスタービールを3杯飲み、その後赤ワインを1人で1本開けました。
酒の強い私でも、さすがに酔ってしまいました。

料理はその後、以下のものが出されましたが、途中からよく覚えていません。

栗豚の生ハムとイタリアンサラミ、スモークチーズ
ローストビーフ 
カルパッチョ 
温泉玉子のシーザーサラダ 
レンズ豆とソーセージの煮込み 
サーロインステーキ 
生ハムとルッコラのピザ 
ほうれん草とベーコンのゴルゴンゾーラパスタ


お店を出ると、雲のない夜空には、たくさんの星が散りばめられていました。
遥か彼方から旅をして、ようやく地球に辿り着いた光です。
北の空には、北斗七星が輝いています。
人間のちっぽけさに比べて、何て宇宙は広大なんだと思いました。

シーのリードは、ずっと彼女が持ってくれました。
いつもの晩翠通り沿いの大仙台駐車場に、彼女の愛車MINIクーパーは停められていました。
シーを抱っこして、助手席に座りました。

突然、彼女は、右の頬にキスをしました。
おそらく私が、父親を探す旅に同意したので、そのお礼だったと思います。

びっくりした顔をすると、彼女は小悪魔のように微笑みました。


BMWサウンドを奏でながら発進しました。
スピーカーからは、辻井伸行のピアノで、Ravelの「亡き王女のためのパヴァーヌ」が流れています。

晩翠通りから右折して、定禅寺通りに入りました。
定禅寺通りの欅並木が、緑のトンネルを作っています。
ハッと思いました。

Ravelの
「亡き王女のためのパヴァーヌ」と「森」

私は、いつもこの定禅寺通りの欅並木に、親しみと懐かしさを感じて来ました。
そして、欅並木の「声」を聴こうと努めて来ました。
それは、子供の頃「森」ではっきりと聴くことができなかった「声」を、この欅並木から聴こうとしていたのだと気づきました。

シーは、胸の中で寝息を立てています。
マグダラのマリアは、そんなシーに優しい眼差しを向けてくれています。

今日は、とても美味しかった
デブ活大成功

彼女は、嬉しそうに言いました。
その時、欅並木から「声」が、聴こえて来たような気がしました。

彼女たちと歩みなさい

定禅寺通りの欅並木のトンネルを抜け、また右折して東二番丁の大通りに出ました。
オレンジ色のスピードメーターや車内照明に照らされたマグダラのマリアの横顔は、奇跡のような美しさです。
神々しくさえ見えました。

Ravelの「亡き王女のためのパヴァーヌ」が、欅並木に向かって流れていました。




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