シーと森の隠遁者 Part8



曇りなきまなこ


雲ひとつない夜空でした。
南の空にペガススの四辺形が見えます。

前方の白いコンクリート造りの建物の、2階の純子の部屋は、今夜も明かりがなく、ピンク色のカーテンがぼんやり霞んでいました。

彼女は毎晩のように、「森」の中の「隠遁者」の家へ通っています。

眼下の白いコンクリート造りの柵に囲まれた10畳ほどの庭には、ピンク色のコスモスが群がるように咲いていました。
時折、隣接する線路を、列車が走り去ります。
ずっと幼い頃から、子守唄がわりに聴いて来た響きです。


丸く大きな白い月が、浮かんでいました。
満月の夜です。

「森」の、けもの道のような細い路を、雑草を踏みしめながら歩きました。
枝や葉の隙間から、丸い姿は見えなくても、仄かに白く照らされた夜空が見えます。

Ravelの「亡き王女のためのパヴァーヌ」が聴こえて来ました。
今夜も「隠遁者」が、「森」に向けてピアノを奏でています。
「森」全体が、コンサートホールのように響き始めます。
樹々が、共鳴します。
立ち止まって、「森」の声に、耳を澄ましました。


「森」を抜けてから「隠遁者」の庭には入らず、そのまま佇んで音色に身を委ねました。

縁側の軒下の、3つの1mほどの背丈の茎葉の鉢のうち、左端の鉢には、あの純白の花が1輪だけ咲いていました。
真ん中に大きく飛び出した雌しべがあり、大きな花びらが重なり合って開いています。
まるで、天女がまとう薄絹の衣のような、繊細な花びらです。
朝陽を見る前に萎んでしまう、儚い花…

しばらくすると、ピアノの音色が止みました。
すると今度は、たどたどしい鍵盤を叩く音が聴こえて来ました。
純子です。


「森」へ戻りました。
やはり、枝や葉の隙間から、仄かに白く照らされた夜空が見えます
草の匂いがしました。

「森」の声を、聴こうと思いました。

ふと、「フランダースの犬」のネロが最後に観たルーベンスの絵の中の、皆に支えられている男の顔が、浮かんで来ました。
「隠遁者」に似た男は、イエスと呼ばれていました。

キリストは再び十字架にかけられる

どういうことなのだろう?
大むかし、遠い国で、人々の罪を背負い十字架に架けられたイエスという男が、再び現れるのだろうか?

ルーベンスの絵の中のような苦痛に歪んだ表情の男が、再び人々の罪を背負い十字架に架けられるのだろうか?

「星の王子さま」の中で、きつねは王子さまに大切な秘密を教えました。

いちばんたいせつなことは、目に見えない

いちばんたいせつなことは、どうしたら見えるのだろう?
もしイエスが、再び十字架に架けられることが大切なことならば、目に見えないではないか?

「森」よ
これから何が起こるの?
僕はとても怖いです


やがて、再び、Ravelの「亡き王女のためのパヴァーヌ」の音色が聴こえて来ました。
「森」全体が、コンサートホールのように響き渡り、樹々が共鳴します。

もっと「森」の声を、聴かなくては


次のよく晴れた秋の日曜日。
空は、たくさんのひつじ雲が、雲の底に薄灰色の影をつくりながら浮かんでいました。
何人かのクラスメートと一緒に、担任のナオミ先生の家に遊びに行きました。

ナオミ先生は、ある農家の家に下宿していました。
この太平洋沿いの農村には、アパートさえなかったのです。

線路を越えてすぐの、松林に囲まれた大きな農家でした。
畑のように広い庭には、ビニールハウスも設置されています。

ちょうどお昼時だったので、ナオミ先生は、カレーライスを作って待っててくれました。
秋の柔らかな日差しを浴びながら、縁側に腰掛けて、クラスメートとカレーライスを食べました。

少し甘いカレーは、とても美味しく感じました。
ビニールハウスが、日差しを浴びて輝いて見えました。

ナオミ先生は、アメリカの大学に留学していたので英語を話すことができました。
アメリカにいた頃は、ものを考えるのに日本語ではなく英語で考えていたと聞いて、とても驚きました。

昼ご飯を食べ終わり、クラスメートたちは、広い農家の庭や松林で鬼ごっこを始めました。
しかし私は加わらずに、ナオミ先生に、ずっと心の奥に潜めていた疑問を問いました。

ナオミ先生は、美しい長いストレートの黒髪が自慢の、スラリとした高身長でした。
いつも長いスカートを履いていて、フリルの付いた白いブラウスをよく着ていました。

銀縁のメガネが、多少その美貌を損なわせていましたが、とても優しいまだ20代半ばの若い教師でした。

ナオミ先生、聞きたいことがあります
この間、「星の王子さま」を読みました
きつねが、王子さまに大切な秘密を教えたんだけど
いちばんたいせつなことは、目に見えない
と言っていました
どうしたら、たいせつなことが見えるようになりますか?

ふふふ
ユキヒロ君はえらいわね
「星の王子さま」は、とても素敵なお話しです
本が好きなの?

はい
お父さんが
たくさん買ってくれました

いいお父さんね
たいせつなことを見ることは
むずかしいことかもしれないわね

………

この世の中は、とてもふくざつで
真実が見えにくくなっているの
だから、いちばんたいせつなことを見るには
曇りのないまなこで見る必要があります
英語では、unclouded globes
でも、曇りのないまなこでものを見るためには
澄んだ汚れのない心をもつことが
必要になるのよ
わかりますか?

はい
なんとなく
ネロやパトラッシュのように
なればいいと思います

ふふふ
そうね
ネロやパトラッシュのように
澄んだ心をもつように心がければ
きっと
ユキヒロ君にも
いちばんたいせつなことが見えるように
なれると思います
頑張ってみて

はい
ナオミ先生
ありがとう

ナオミ先生は、優しく頭を撫でてくれました。
銀縁メガネの奥の瞳は、優しさに満ちています。
純子と同じような石鹸の香りがしました。


ナオミ先生の農家の下宿先から家へは帰らず、お祖父さんに買ってもらったブルーの自転車で、「大排水」が左右に分かれている分岐点の「ひょっこりひょうたん島」に向かいました。

「大排水」とは、大きな用水路のことです。
幅が数メートルほどあり、小さな川のように大きいので、みな「大排水」と呼んでいました。
深緑色の水面のため、どれだけ深いのかはわかりません。
また「大排水」が二手に分かれた間の陸地を、「ひょっこりひょうたん島」と呼んでいました。
当時、流行っていたテレビ人形劇の島に、似ていたからです。

「ひょっこりひょうたん島」は、たくさんのススキに覆われていました。
背よりも高いススキの穂が、秋の日差しで銀色に輝いています。

わずかな風に乗って、田舎の匂いが届きました。
土や草や花や、田んぼや畑や生き物なんかが混ざった、懐かしい匂いです。

今年の夏に、幼なじみのカナエは、この「ひょっこりひょうたん島」の「大排水」の底から見つかりました。
人形のように息をしないカナエが、飛び込んだ父親の腕に抱きしめられました。

ススキをかき分けないと、「大排水」の深緑色の水面は見えません。
ススキを強引にかき分けて、斜面を下りて行くと、ジャポンと水音がしました。
「大排水」に棲むライギョかもしれません。

さらに、水面に近づこうとした時、雑草に足を滑らせました。

あッ

バッシャン!

僅かな水飛沫とともに、左足から白い運動靴が脱げました。
深緑色の水面に左足が獲られ、運動靴は、底の見えない川底へとゆっくり沈んで行きました。
両手で、なんとかススキの茎を掴み、身体ごと水面に落ちるのは避けられました。

あぶなかった

深緑色の水面から、白い物体が完全に消えてしまうまで、ずっと見つめました。
やがて水面は、何事もなかったかのように、再び、秋の日差しを浴びて輝き始めました。

鼓動が激しくなっていました。

カナエ

カナエも白い運動靴のように、その美しい白い身体を川底へと沈めてしまったのだと思いました。


右足だけ運動靴を履いて、びっこを引くようにして、傾きかけた秋の日差しを受けながら、ブルーの自転車を引いて歩きました。
道端のススキの穂が、わずかに風に揺れています。

左足の靴下は、びっしょり濡れています。
とても冷たく感じました。
なぜだか急に、涙が溢れて来ました。

阿武隈山地に傾き始めた秋の太陽が、何かを語りかけて来るようでした。

カナエはもういない

純子も遊んでくれなくなった

僕はカナエのように沈むところだった


国鉄の「山下」駅前の、粗末な商店街を通り過ぎました。
幾人かの通行人が、語りかけて来たような気がしましたが、何も聞こえません。
ただ驚いたような大人たちの顔だけが、走馬灯のように過ぎ去って行きました。

いちばんたいせつなことは、目に見えない

曇りのないまなこでものを見る

これから、ネロやパトラッシュのように、曇りのないまなこで、世の中を見て行こうと思いました。

阿武隈山地に陽が隠れ始め、紅く染まったススキの穂が風になびいていました。

その日以降、私は泣いたことがありません。
母が亡くなり、父が亡くなっても、一滴の涙すら出ませんでした。




シーズーと一緒に映画

愛犬シーズーのシーと毎日iPhoneで映画を観てます 私が観て来たたくさんの映画を紹介いたします

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