シーと森の隠遁者 Part9
「森」の声
秋が深まりを見せた頃…
「一本松」を、取り囲むように拡がる田んぼは、稲刈りが終わり藁があちこちに積まれていました。
つい何週間か前まで、稲穂が黄金色に輝き中心に「一本松」が、すくっと構えていました。
稲穂があたかも太平洋の波のように、風に揺れました。
それは黄金色の海原でした。
「一本松」の黒く太い枝の1つの「展望台」に登りました。
大きく丸い太陽が、阿武隈山地に隠れようとしています。
西の空は、たくさんのうろこ雲が赤く染まっていました。
やがて、太陽が半分姿を隠しました。
すると、深い緑が連なる山々も、燃え上がるように赤く染まりました。
まるで夕陽が火種となって、山々を燃やしているようです。
はっと思いました。
その山々が燃え上がるように染まった光景が、不吉な予感を呼び起こしました。
まさか
なぜか「隠遁者」の「森」と重なったのです。
「森」が燃える!
毎晩、「隠遁者」が奏でるピアノによって、コンサートホールのように、Ravelの「亡き王女のためのパヴァーヌ」が響き渡り、樹々が共鳴するあの「森」が…
家に帰ると、茶の間の箱型の大型のカラーテレビには、巨人軍の長嶋茂雄の引退セレモニーが映し出されていました。
父は豊かなオールバックの髪に、煙草の煙を吸い込ませながら、真面目な顔で見ていました。
長嶋引退するんだね
ああ
今日もホームラン打ったよ
母は、とても細く狭い台所で、夕飯の用意をしています。
昨日から、炬燵の上に置かれたままの1冊の本を、手に取りました。
「星の王子さま」
いちばんたいせつなものは、目に見えない
花束を抱えた長嶋茂雄が、球場のスタンドに手を振りながら歩いています。
大きな声援が送られていました。
たくさんの星が、散りばめられていました。
南の空の低いところに白く輝いているのは、フォーマルハウトです。
天頂近くには、ペガススの大四辺形も見えました。
星は、はるか彼方から、光を地球に届けています。
自分が生まれるずっとずっと前から、星は光を届けています。
「森」の真ん中で、立ち止まりました。
枝や葉の隙間から、星たちが覗いています。
樹と草の匂いがしました。
「森」は、温かく優しく包んでくれます。
人の世の雑念が届かない場所です。
暗闇に、樹々の幹や枝や葉っぱたちが何かを語っています。
それはとても大切なことです。
とてもとても大切なことです。
目を閉じました。
曇りなきまなこで見定める
「森」の声を聴かなくてはならない
やがて、ピアノの音色が聴こえて来ました。
Ravelの「亡き王女のためのパヴァーヌ」です。
「隠遁者」は、今晩も天国へ行ってしまったカナエのために、「森」に向けて鎮魂歌を奏でています。
コンサートホールのように響き渡り、樹々が共鳴します。
「森」さん
いつまでも見守っていてください
けっして燃えたりしないでください
声をいつまでも聴かせてください
一瞬、枝と葉っぱが僅かに揺れました。
「森」が、微笑みました。
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