シーとマリア Part15
世界の約束
樹々に囲まれたコテージは、秋の夕闇に包まれました。
浅間山も、闇の中です。
紺碧色の空には、たくさんの星が散りばめられていました。
高原の澄んだ空気が、夜空を大きくします。
星たちが手に届きそうです。
やはり少し冷えました。
8畳ほどのリビングのヒーターと、床暖房を点けました。
天井から吊るされた傘のついた照明と、窓ぎわの木製のタンスの上の電気スタンドが、リビングを暖かい色に包んでいます。
中央の四角く白い木製のテーブルには、てるてる坊主が置かれていました。
掃除担当者の心遣いです。
明日も晴れますように
iPhoneからは「ハウルの動く城」の倍賞千恵子の「世界の約束」が流れていました。
涙の奥にゆらぐほほえみは
時の始めからの世界の約束
いまは一人でも二人の昨日から
今日は生まれきらめく
初めて会った日のように
思い出のうちにあなたはいない
そよかぜとなって頬に触れてくる
木漏れ日の午後の別れのあとも
決して終わらない世界の約束
いまは一人でも明日は限りない
あなたが教えてくれた
夜にひそむやさしさ
思い出のうちにあなたはいない
せせらぎの歌にこの空の色に
花の香りにいつまでも生きて
晩ご飯を食べました。
ショッピングプラザからの帰りに道、JR軽井沢駅で販売されている名物「峠の釜めし」を買いました。
マグダラのマリアは、すでに黒いパーカーに着替えています。
いつも通り、耳には白い花形のVan Cleefのピアス、首にも白い花形のVan Cleefのペンダント。
そして、クロエオードパルファムの香り…
彼女にとって、初めての軽井沢です。
普段ほとんどお酒を飲まない彼女が、珍しく缶のピーチカクテルを飲みました。
私は、軽井沢では必須の軽井沢高原ビールと一緒に、「峠の釜めし」を食べました。
乾杯!
シーちゃんも乾杯
シーには特別、普段よりも多めにカリカリご飯を盛りました。
赤く丸い容器に、パックからカリカリご飯を入れ始めると、ちょっとだけ舌を出して、何度もぴょんぴょん飛び跳ねます。
喜び爆発です。
最高に愛おしい瞬間です…
でもシーは、あっと言う間に平らげます。
そして、私と彼女の「峠の釜めし」を、じっと見上げます。
シーちゃん
足りないのかしら?
いつものことだよ
これ以上おデブになったら
また獣医に叱られてしまう
彼女は、シーの頭を優しく撫でました。
シーは、やはりちょっと舌を出して、やや上を向いて目を閉じます。
シーちゃん
デブ活は私だけでいいみたいね
白い木製のテーブルには、てるてる坊主の他に、例の白い封筒が置かれていました。
宛名は、女性の名前です。
星純子様
便箋はなく、写真が1枚だけ入っていました。
樹々に囲まれ、鋭角な屋根に十字架が聳える小さな教会…
右奥には、1本の満開の桜が見えました。
この教会がどこの教会か?
すぐにわかったわ
有名な教会だったから
うん
俺も、ちょうど今年のゴールデンウィークに
シーを連れて、何十年ぶりに訪ねたばかり
だったから、すぐに気づいたよ
軽井沢の聖パウロカトリック教会だってね
昼間に、この白い封筒の宛名を見た瞬間から、心の奥底がずっと激しく揺さぶられていました。
星純子様?
小学校時代を過ごした太平洋沿いの田園が拡がる農村が、蘇って来ました。
私の住んでいた国鉄官舎には、当時、姉のように優しかった高校生の純子も住んでいました。
彼女は、長い睫毛の儚い瞳のとても美しい少女で、弁護士を目指していました。
また、国鉄官舎の裏には竹と広葉樹の「森」がありました。
「森」の奥には、「隠遁者」と呼ばれていたある男が、痩せた白い犬と暮らしていました。
満天の星たちの下、「森」の中でいつも「隠遁者」が奏でるピアノの音色を聴きました。
Ravelの「亡き王女のためのパヴァーヌ」です。
「森」は、毎夜コンサートホールのように響き渡り、樹々が共鳴しました。
それは、ある夏に溺れて死んでしまった、幼馴染のカナエに向けての鎮魂歌でした。
よく純子と手を繋いで「森」に包まれ、ピアノの音色に身を委ねました。
やがて「森」の声を聴こうとしました。
そして、幼い頃に刻まれた思いと謎は、今でも心の奥に秘められていました。
キリストは再び十字架にかけられる
晩ご飯を食べ終えたあと、私たちは、樹々に囲まれたコテージの外に出てみました。
紺碧色の空は、はるか彼方から長い旅の末にようやく辿り着いた星たちの1つ1つの輝きに満ちていました。
樹々の間の細いアスファルト道路に沿って、コテージが並んでいます。
どの窓にも、暖かな幸せな明かりが灯されていました。
シーは仄かな明かりの下で、楽しそうに歩いています。
樹の根元に鼻先をつけて、匂いを嗅いでいます。
星純子さんは、お母さんなの?
………
ええ
そうよ
やはりそうか
………
明日の朝
聖パウロカトリック教会のミサに
参列してみよう
何かわかるかもしれないから
はい
彼女は、紺碧色の星たちに満たされた夜空を見上げました。
その長い睫毛の儚い瞳は、やはり記憶にある純子と同じでした。
彼女は、奇跡的に美しく儚い存在です。
純子の辿った運命が、どのようなものであったのか?
それは、これから徐々にわかるでしょう。
そしておそらく「森の隠遁者」が、深く関わっているはずです。
シーが突然、吠えだしました。
星たちに向かって、何かを訴えるかのように吠えました。
星たちが、はるか彼方から光を届けるのは、時の始めからの世界の約束です。
涙の奥にゆらぐほほえみは
時の始めからの世界の約束
0コメント