シーと森の隠遁者 part10
美しい声
よく晴れた秋の日曜日。
空は、たくさんのひつじ雲が、雲の底に薄灰色の影をつくりながら浮かんでいました。
白いレースのカーテンから陽射しが差し込む、茶の間の畳に寝転んで、箱型の大型のカラーテレビで「仮面ライダーV3」を観ました。
もうすぐ、悪の組織ショッカーの首領の正体が明らかにされようとしています。
全国のほとんどの子供たちが、固唾を飲んで画面に釘付けになっていました。
「仮面ライダーV3」が終わると、国鉄官舎の裏にあるコンクリート造りの物置から、祖父に買ってもらったブルーの自転車を出して、ペダルを漕ぎ出しました。
爽やかな秋の風を、頬に感じます。
道端にはススキの穂が、銀色に輝いていました。
常磐線の踏み切りを越えました。
線路が南から北へと真っ直ぐに続いています。
以前は、冷たいレールに耳をつけて列車の振動を感じました。
独特の匂いがしました。
線路の果てには、新しい世界が広がっています。
大人になれば未知の世界へ、心が踊りました。
高度成長期の日本では、安保闘争が鎮火し、連合赤軍の浅間山山荘事件によって、若者たちによる政治闘争は終焉を迎えていました。
軽井沢の浅間山荘では、クレーン車の大きな銀色の鉄球が打ち込まれました。
朝からずっとテレビ中継も続きました。
父も母も無言で、じっとその光景を観ていました。
若者が目指したユートピアの終焉でした。
何かが間違っていました。
しかし敗戦後の日本が、ようやく先進国へ仲間入りをする一歩でもあり、新しい日本へと移行する区切りでした。
そして、こんな東北の太平洋沿岸の田園が広がる小さな農村は、日本で起きるあらゆる事象から取り残された、ちっぽけな存在でした。
キリストは再び十字架にかけられる
ふと口に出ました。
ひつじ雲に習うようにしばらく進むと、日差しを浴びた松林に囲まれた大きな農家が見えて来ました。
ナオミ先生の下宿先です。
今日は、ナオミ先生から本を借りる約束をしていました。
畑のような広い庭に入り、ブルーの自転車を停めました。
ビニールハウスは、日差しによって白く輝いています。
ニワトリが数羽、無表情のまま我が物顔で歩いていました。
ナオミ先生は、笑顔で迎えてくれました。
日曜日でも、白いフリルの付いたブラウスに黄色のカーディガンを羽織り、いつものロングスカートを履いています。
やはり、純子と同じような石鹸の香りがしました。
おはよう
ユキヒロ君
よく来たわね
おはようございます
ナオミ先生
暖かな秋の日差しが注ぐ縁側に、腰を下ろしました。
ナオミ先生は、小瓶のファンタオレンジを持って来てくれました。
はい
この2冊ね
ナオミ先生
ありがとう
宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」と、灰谷健次郎の「兎の眼」です。
とくに「兎の眼」は、その年に出版されたばかりの、主人公の若い女性教師の奮闘が描かれた話題の一冊でした。
ナオミ先生は、同じ新米教師として感銘を受けたらしく、とてもいい本だとススメてくれました。
本を手に取り、ページをめくりました。
ずっと心の奥底にしまっていたことを、勇気を出して尋ねようと思いました。
ファンタオレンジが、口の中で広がりました。
ナオミ先生
質問があります
純子ちゃんは
「キリストは再び十字架にかけられる」
という本を読んでいました
キリストが再び十字架にかけられるって
本当なんですか?
………
ごめんなさい
それはとてもむずかしい質問ね
キリストはとてもむかしの人だから
再び十字架にかけられるどうかは
先生にもわからないわ
………
そうなんだ
ナオミ先生でもわからないんだ
………
ごめんなさいね
先生でもすべてのことが
わかるわけではないのよ
でもよくそんなことを考えましたね
うん
なら
「隠遁者」の「森」が燃えてしまうことは
ありますか?
え?
「隠遁者」の「森」?
はい
僕の家の裏の「隠遁者」の「森」です
そ、そうね
………
きっと大丈夫よ
「森」が燃えてしまうことは
めったにないことです
そのようなことはあってはならないことです
この間、夕陽に染まる山を見ていたら
「森」が燃えると思ってしまったんです
………
本当に大丈夫ですか?
「森」が燃えたら困るんです
あの「森」は、毎日ピアノの音色が響き渡るんです
毎日、「森」の声を聴いているんです
………
そう
そうなのですね
ナオミ先生も、1度「森」の声を聴いてみてください
「森」は、とても大切なことを話してくれるんです
そのあとお昼ご飯に、当時珍しかった発売されたばかりの日清のカップヌードルをいただきました。
お湯を注いで3分待つだけで食べれることに、とても驚きました。
ナオミ先生と2人で、時計とにらめっこをしました。
秋の日差しが縁側に注ぎ、ナオミ先生の顔がより一層眩しく見えました。
銀縁のメガネの奥の瞳は、育ちの良い上品な優しさに満ちていました。
純子やカナエと同じ、澄んだ眼をしていました。
はい
3分経ちました
熱いから気をつけてね
なんかへんな味
でも美味しいです
ふふふ
よかったわ
ナオミ先生は、一瞬、大人の女性というよりも少女のような幼い笑顔を見せました。
そしてその晩、ナオミ先生と「隠遁者」の「森」の声を聴く約束をしました。
家に戻るとさっそく、午後の日差しに包まれたスチール製の学習机に向かって、まず「銀河鉄道の夜」を読みました。
「やけて死んださそりの火」のエピソードと、「ほんとうのみんなのさいわい」が書かれていました。
カンパネルラが友だちを助けて溺れてしまい、ジョバンニは、牛乳と父の知らせを持って母の元へ帰りました。
ほんとうのみんなのさいわいとは何だろう?
わたくしという現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
紺碧色の空には、半月が周りを仄かに白く幻想的に育んでいました。
少し南には、「南のひとつ星」とも言われるフォーマルハウトが水精のようにひときわ輝いています。
ナオミ先生と手を繋いで「森」の入り口まで来ました。
細く長い指に、指を絡ませてました。
ナオミ先生は、懐中電灯を照らしていましたが、足下を僅かに明るくするだけです。
ナオミ先生
懐中電灯はいらないよ
僕が道案内するから
真っ暗な「森」の中の、けもの道のような細い路を、雑草を踏みしめながら歩きました。
ナオミ先生は、手を繋ぐだけではなく、肩を抱き寄せるようにしています。
少し怖いのかもしれません。
やはり純子と同じ石鹸の匂いがしました。
優しい匂いです。
やがて、樹々が密集する「森」の中心に着きました。
ナオミ先生
上を見て
樹々の枝と葉の隙間から、半月の幻想的な白い姿が覗いています。
それは、夜空を見上げることの知らない人間には、想像もつかない美しい現象です。
月があたりを白く仄かに漂わせることを知るのは、動物や鳥や昆虫や植物たちです。
曇りなき眼を持ち得たものだけです。
わー
美しい
ナオミ先生は、澄んだ瞳を向けました。
樹々の隙間から覗く半月は、遠い宇宙空間からあたかも「森」と交信しているかのようです。
384400kmの距離から、「森」の声を聴いていました。
やがて、いつも通りピアノの音色が聴こえて来ました。
Ravelの「亡き王女のためのパヴァーヌ」です。
樹々が揺れます。
「森」が、ざわめき始めます。
ナオミ先生は、上を向いたまま眼を閉じました。
私を、しっかりと抱きしめました。
ピアノの音色が、徐々に大きくなって行きます。
あの悲しく切なく儚い旋律が、樹々に届きます。
やがて、「森」は、コンサートホールのように響き渡りました。
樹々が共鳴します。
ナオミ先生は、少し震えていました。
泣いていたのかもしれません。
膝をつき、私の背中に両手を回して、強く抱きしめます。
ナオミ先生
どうしたの?
………
ありがとう
小さくも儚く美しい声でした。
樹々の隙間から覗く幻想的な白い半月が、スポットライトのように私たちを照らしています。
「森」に包まれました。
やがて「森」の声が聴こえて来ました。
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