シーとマリア part16



信じられない真実に満ちた微笑み
 

丸太を重ねた壁の南窓には、柄物のベージュのカーテンが引かれています。
遮光カーテンのため、隙間から僅かに朝日が溢れるだけです。
高原の澄みきった静謐な空気を感じます。

iPhoneから辻井伸行のピアノで、Ravelの「亡き王女のためのパヴァーヌ」を流しました。
悲しく儚いピアノの音色が、幼年時代の記憶の「森」を蘇らせます。

アントワープ大聖堂のルーベンスの「キリスト降架」のイエスの顔に、そっくりだった「森の隠遁者」が思い出されます。

リビングルームから、マグダラのマリアの澄んだ声が聞こえて来ました。
どうやら、シーに話しかけているようです。

iPhoneを手にドアを開けました。
東壁側の木製タンスの上に置かれた円柱型の電気スタンドだけが、部屋をあたたかく灯しています。
彼女もシーも、慈愛に満ちた灯りに包まれていました。

おはよう
何を話ししていたの?

おはよう
ふふふ
それはシーちゃんに尋ねてみて

彼女はまだ、濃紺色のミニオンの絵柄のパジャマのままです。
シーは、彼女を見上げてさかんにしっぽを振っていました。

シーの白とゴールドの体毛が、美しく照らされています。
部屋中に、Ravelの「亡き王女のためのパヴァーヌ」が響きました。

悲しく儚く美しい曲…
この曲を聴く心を持つことは、とても大切なことです。
悲しみを知るものだけが聴ける曲…
悲しみを知るものだけに届く曲…

シー
おはよう
何を話ししていたの?


朝の聖パウロカトリック教会は、厳かな静けさに包まれていました。
鋭角な屋根の上には、十字架が聳えています。
今年のゴールデンウイークに、シーと訪ねた以来です。

周りを取り囲む樹々が、いくぶん紅い色に染まっています。
北の空のうろこ雲の下には、黒に近い深い緑色の浅間山が聳えていました。
高原の冬は、もうすぐです。


正面扉を開けました。
薄暗い聖堂には、日曜日ということもあって、すでに10名ほどの参列者が、中央の通路を挟んで左右に並ぶ木製の長椅子に、順番に腰掛けていました。

祭壇の奥には、変わらず十字架に磔にされたイエスの像が飾られています。
じっとイエスの顔を、見つめました。

社会人になってすぐの6月、世間から逃げるように軽井沢へやって来ました。
そしてよく晴れた朝、聖パウロカトリック教会のミサへ初めて参列しました。

あの時の光景が、蘇って来ました。

そう、あの時…


(以下、「シーとヴィア・ドロローサ」より)

やがて司祭が現れ、ミサが始まりました。
司祭は、初顔の私を一瞥しました。

その後、どのようにミサが進められたのかは具体的には覚えていませんが、聖歌が歌われ、アーメンを唱えました。

そして、聖体拝領が始まり、司祭から参列者にパン(聖体)が授けられました。
何もわからない私は、他の参列者と同じように、パン(聖体)を授かれると思い、祭壇の前に立ちました。

あなたは洗礼を受けておりませんね

司祭は、初顔の私に確認しました。
当然、パン(聖体)を授けてもらうことはできません。
それでも司祭は、頭の上に手を置いて、祝福してくださいました。

私は、自分の無知が恥ずかしくなり、顔が紅潮しました。
すると、右側の最前列の席に座っていた白人の少女が、クスッと笑ったように感じました。
私は余計に恥ずかしくなり、すぐに少女の後ろの木製の長椅子の席に戻りました。

斜め前方の、少女の横顔が見えました。
金髪でお下げ髪の、まだ小学校低学年ぐらいの少女です。
彼女は、微笑みながら掌を合わせ、黙祷していました。

閉祭の歌が歌われ、司祭は退堂しました。
私は座ったまま、ミサの余韻に浸っていました。
十字架のイエスの像から、なにかを感じていました。

ふと、イエスがゴルゴダの丘へと、十字架を背負い歩いていた時、彼を憐れみ額の汗を拭うようにと、自らのベェールを差し出した女性がいたことを思い出しました。

どうか祝福を
アーメン

そう心の中で呟いた時、ようやく先ほどの少女が、目の前に立っていることに気づきました。
はち切れんばかりの可愛らしい笑顔でした。

You dropped something. Is this yours? 
あなたは何かを落としました
これはあなたのものですか?

少女はそう言って、タオルハンカチを差し出しました。
それは私のハンカチでした。
どうやら、先ほど祭壇の前に立った時に、ズボンのポケットから、知らず知らずに落としてしまったようです。

ありがとう

私は、慌ててお礼を言って受け取りました。
彼女が、日本語を理解していたかはわかりません。

It’s my pleasure.
どういたしまして、嬉しいです

少女は、ニコリと微笑みました。
そして、扉の前で待つ両親のもとへ、お下げ髪の先を、ぴょんぴょん跳ねらせながら走って行きました。
まだ若い両親は、娘の行いを讃えるかのように、両手を拡げて彼女を迎えました。

そんな光景を眺めながら、私は無意識のうちに、額の汗をそのタオルハンカチで、拭っていました。
汗が染み込んだそのハンカチには、1匹の犬が刺繍されていました。

あの子は
ハンカチを落としたのを見て笑ったんだ

祝福あれ


十字架に磔にされたイエス像は、遠いむかしの初めてのミサでの光景を蘇らせてくれました。
遠くもあり昨日のことでもあるような記憶の一片を…

そうだった
あの時、おさげ髪の白人の女の子が、落としたタオルハンカチを拾ってくれたんだ
そして、汗を拭ったそのタオルハンカチには
1匹の犬の刺繍がしてあった…

イエスが、重い十字架を背負いながらゴルゴダの丘へ向かう途中、イスラエルの敬虔なヴェロニカという女性が、自らのヴェールを差し出しました。
イエスが申し出を受けて、額の汗を拭い彼女にヴェールを返すと、そのヴェールにイエスの顔が浮かび上がったという奇跡が起きた…


するとその時、扉が僅かな音とともに開きました。
聖堂に一筋の光が差し込みます。

振り向くと、杖を持った1人の白人の女性が立っていました。
歳は30代後半ぐらいでしょうか。
金髪に、年齢に不似合いな三つ編みにしています。

白の花柄のワンピースに、薄いピンク色のカーディガンを羽織り、杖をつきながら左足を引きずるようにゆっくりと歩き出しました。

コツコツコツ

杖の音が、静寂な聖堂に響きます。

すると、最前列に腰掛けていたやはり中年の女性が、すぐに彼女のもとへ駆け寄りました。
一言声をかけて、肩を抱いて歩行を助けます。

コツコツコツ

ちょうど私の脇を通る時、彼女は、私を一瞥して微笑んだような気がしました。

ようやく最前列まで進むと、周りの方たちに軽く会釈をして腰掛けました。

薄暗い中、マグダラのマリアは、その様子をじっと黙ったまま見つめていました。


やがて司祭が現れ、ミサが始まりました。
賛美歌が歌われます。
マグダラのマリアは、少し高めの澄んだ声で歌っています。
美しい声でした。

聖体拝領の際に、その三つ編みに杖の女性は、やはり中年の女性の助けを借りながら、司祭からパン(聖体)を授かりました。

私とマグダラのマリアは、クリスチャンではないので、司祭が頭に手を乗せて祝福してくださいました。
彼女は、目を閉じて司祭の手を感じています。
その横顔は、奇跡的な美しさでした。

私も22歳の時以来の祝福です。

もうずいぶん長い年月が経ってしまった
でもまだ何も解決できていない…

その後、三つ編みの杖の女性を、後ろから眺めました。
目を閉じ掌を合わせて、黙祷を捧げています。

どこかで会ったことがあったかな?

ミサの間も、ずっと気になっていました。
そして、もしやという思いに至りました。


司祭が退堂し、ミサが終わりました。
マグダラのマリアは、やはり黙ったまま祭壇を見つめています。
仄かな灯りに照らされた十字架のイエスの像を、じっと見つめています。
何かを感じているようでした。

私も、十字架に磔にされたイエスの顔から、ルーベンスの「キリスト降臨」と、あの「森の隠遁者」を感じました。


先ほどの三つ編みの杖の女性が、やはり中年女性の助けを借りながら立ち上がり、再び杖の音を響かせました。

コツコツコツ

私は中央の通路に立って、彼女を待ちました。

おはようございます
突然、申し訳ありません
私はオオツキと申します
たいへん不躾ですが
1つお尋ねしたいことがあります
よろしいでしょうか?

彼女は、優しい澄んだ青い瞳をしていました。

おはようございます
どうぞ
どうぞ
おっしゃってください

はい
ありがとうございます
昭和が終わろうとしていたずいぶんむかしに
初めてこの教会のミサに参列いたしました
私はクリスチャンではないのにも関わらず
司祭からパンを授かろうとしてしまいました
その際に落としたハンカチを、拾ってくださったのは、あなたではなかったですか?
………
もうずいぶん前のほんの些細なことですから、当然、覚えていらっしゃらないと思われますが…

彼女は、一瞬天を仰ぐように上を向きました。
澄んだ青い目を閉じます。
そして、優しい瞳を開きました

そうですか
それは私がまだ不自由なく走ることができた幼い頃ですね
たしかに祭壇で拾ったハンカチに、かわいらしい犬の顔が描かれていた記憶は残っております
その時の方が、あなたなのですか?

はい
私です

私は、シーとの散歩用のライトブルーのショルダーバッグから、薄いベージュ色のタオルハンカチを取り出しました。
そして、彼女の前に広げました。

彼女は、一瞬驚いた表情を見せたあと、再び少女のように微笑みました。

そうでしたね
思い出しました
この犬の刺繍でした
よく大切にされていましたね

はい
この犬の刺繍のハンカチは
ずっと思い出とともに大切にしていました
あらためて見ると
白にベージュの模様の犬の顔でした
今、私は、この刺繍の顔によく似た犬と暮らしています

………
そうでしたか
それはきっと
主のお陰ですね
主のお導きです
感謝を捧げてください

はい
あなたとまたお会いできて
とても嬉しく思います
本当にありがとうございました

マグダラのマリアは隣で、じっと彼女を見つめていました。
尊敬と憧れの表情とともに…
クロエオードパルファムの香りとともに…

シーという名前なんですよ
今朝は、ミサに参列するためホテルに預けておりますが
とても大きな瞳のシーズーなんです

自分の赤ちゃんを紹介するママのように弾んだ声です。

はいはい
そうでしたか
………
きっとその子は神の子です
必ずさいわいをもたらすでしょう

三つ編みの杖の女性は、信じられない真実の優しさに満ちた微笑みを浮かべました。

私には彼女が、十字架を背負いゴルゴダの丘へ向かったヴィア・ドロローサ(悲しみの道)で、イエスに自らのヴェールを差し出したイスラエルの敬虔なヴェロニカという女性に思えました…

そして私とマグダラのマリアは、三つ編みの杖を持った女性の掌に、自分たちの掌を重ねました。

するとちょうど扉が開き、再び一筋の光が、私たちの方へ差し込みました。

キリストは再び十字架にかけられる




シーズーと一緒に映画

愛犬シーズーのシーと毎日iPhoneで映画を観てます 私が観て来たたくさんの映画を紹介いたします

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