シーと森の隠遁者 part11
小さな白い雲
「一本松」の黒く逞しい幹から太い枝を登ると、松の葉がぽっかり開いている「展望台」と呼んでいた空間があります。
「展望台」から空を見上げました。
澄んだ青空にうろこ雲が、気持ち良さそうに並んでいます。
春の太陽は、すべてを一新させ、新しい命に微笑んでいます。
周りの田んぼは、冬を越してようやく雪も溶けました。
畦道には、目新しい雑草が力を漲らせています。
しばらく、春の風を感じました。
田舎の匂いがします。
土や草や花や、田んぼや畑や生き物なんかが混ざった懐かしい匂いです。
しばらくすると、太陽の光で眩い北方の畦道を、誰かが歩いて来ます。
どうやらまだ若い女性のようでした。
あ!
純子ちゃん
グレーのパーカーにジーンズを履いた純子でした。
「一本松」へ手を振ります。
一足先に桜が咲いたような笑顔でした。
おはよう
純子ちゃん
おはよう
ゆうちゃん
私も登ろうかな
黒く逞しい幹から太い枝を伝って、登って来ました。
少し息を弾ませています。
石鹸の匂いがしました。
ついたー
しんどいねー
大丈夫?
ハハハ
ゆうちゃんは
いつも「展望台」に登っているね
何を眺めているの?
いろいろだよ
ここからだと世界がよく見えるような気がして
そうかもね
見晴らしはいいものね
しばらく私たちは、黙ったまま世界を眺めました。
空や雲や太陽や月や星と、土や草や花や樹や生き物たちの世界です。
太陽がすべてを育み、月や星が闇を照らします。
食物連鎖が行われ、命が引き継がれます。
ゆうちゃん
明日、大学に通うため仙台に行くよ
うん
わかってる
手紙書くから
うん
返事書くよ
純子は、細く長い指で手を握ってくれました。
それから
この本はまだむずかしいと思うけど
中学生になったら読んでみて
純子のスチール製の学習机に置かれていた、ニコス・カザンザキスの「キリストは再び十字架にかけられる」でした。
純子は、握った手に力を込めました。
何かの合図でした。
最後の温もりでした。
私は、ついに最も気になっていたことを口にしました。
純子ちゃん
もう「隠遁者」には、会いに行かないの?
………
そうね
もう会わないかもしれないわね
………
でもピアノはだいぶうまくなったから
落ち着いたらピアノ教室にでも行こうかしら
………
なら
いつかあの曲聴かせてね
ええ
うまくなったらね
うん
楽しみにしているよ
純子ちゃんの分まで「森」の声を聴くから
………
純子は黙ったまま、地球の始まりから続く、澄んだ青い空を見上げました。
小鳥がさえずっています。
長い睫毛の美しく儚い瞳です。
その美しさを、ずっと忘れまいと思いました。
翌日、雲ひとつない快晴でした。
純子が、国鉄官舎から去りました。
私は、祖父に買ってもらったブルーの自転車に乗って、ナオミ先生の下宿先である松林に囲まれた大きな農家へ向かいました。
天井は見渡す限り澄んだ青さです。
雲はひとつも見当たりません。
風が、少しだけ冷んやり頬に触れます。
松林がざわめきます。
畑のような広い庭には、名前の知らない色とりどりの花が咲いていました。
ビニールハウスが、白く輝いています。
数羽のニワトリが、神経質そうに歩いていました。
ナオミ先生は庭先にいました。
白いフリルの付いたブラウスがとても眩しく、長い黒髪を後ろでひとつに束ねています。
あら
ユキヒロ君
こんにちは
こんにちは
ナオミ先生
何をしているんですか?
この小さな鉢にね
種を植えたんです
月下美人です
知っていますか?
はい
月下美人なら知っています
秋に「隠遁者」の家で見ました
………
そ、そうなのですね
「隠遁者」の家で…
………
先生はまだ見たことがないので
ぜひ咲かせてみたいです
ナオミ先生は知っていますか?
月のない夜に咲くんです
朝には萎んでしまいます
とても匂いが強くて
白く美しい花でした
そうですね
夜にだけ咲く神秘的な花ですね
先生も早く見てみたいです
ナオミ先生は、銀縁のメガネの奥の澄んだ瞳をきらめかせながら微笑みました。
石鹸の香りがします。
ナオミ先生
お願いがあります
この本もらったんですけど
僕にはまだむずかしいので
ナオミ先生が読んで
どんな本か教えてもらえませんか?
薄いブルーの手さげ袋から、分厚い本を取り出しました。
純子からもらったニコス・カザンザキスの「キリストは再び十字架にかけられる」です。
………
先生も
見たことない本ですね
ニコス・カザンザキス?
「キリストは再び十字架にかけられる」?
ナオミ先生は、分厚い本を手に取りページをめくりました。
キリストは再び十字架にかけられる?
………
そういえば前に
ユキヒロ君から質問されたことがありましたね
キリストは再び十字架にかけられるのかって?
はい
純子ちゃんの家でこの本を見てから
疑問に思うようになりました
だから
ナオミ先生に読んで
教えて欲しいんです
春の穏やかな日差しが、縁側の廊下に注いでいました。
黒ずんだ木目まで鮮やかです。
並んで、日清カップヌードルを食べました。
細くて少し縮れた麺にも慣れました。
ユキヒロ君
「森」へはまだ通っているんですか?
今でもピアノは、奏でられているんですか?
はい
毎晩、「森」の中でピアノが響き渡るのを聴いています
「森」は、いろいろなことを話してくれます
ナオミ先生にもわかるでしょう?
ええ
あの時はとても感動して
涙が出てしまいましたね
ユキヒロ君は
ずっとあの声を聴いているんですね
ナオミ先生は、「キリストは再び十字架にかけられる」の分厚い本を見つめました。
美しい黒髪が、陽に照らされています。
艶やかに光っています。
小さな口が、花びらのように開きました。
アメリカの大学に留学していた時にね
トウモロコシ畑が地平線まで続いていたんです
朝陽が昇ると
トウモロコシ畑が燃えるようでした
壮大な光景です。
人間はちっぽけな存在でしかありません
大切なことを見失わないように
そう思いました
はい
僕も「森」の声から
小さな命のささやきを聴いています
春の陽が、松林を眩く輝かせていました。
ふと、小さな白い雲がひとつだけ浮かんでいるのに気づきました。
澄んだ青空に、不思議と小さな白い雲がひとつだけ浮かんでいました。
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