登り棒


淡いピンク色の花びらがふっくらです。
綿あめのように膨らんだ何本もの桜の木が、広い校庭を囲んでいます。

ときおり風によって、花びらが舞います。
地面がピンク色に染まります。

真新しいスーツの男の子たちと、上品なドレスの女の子たちが、大き過ぎるランドセルを背負ってぎこちない笑顔を見せています。
親たちは、我が子の晴れ舞台を写真に収めようと、校門近くの大きな桜の木の下に集まっています。

桜が儚はかなく美しいと人は言うけれど、その頃の私には、ただのピンク色の花のひとつにしか過ぎません。
年に1度の刹那さを感じるには、まだ早すぎます。

校庭の南側には、さまざまな遊具がありました。
この山下第二小学校は、1学年1クラスだけの小さな学校でしたが、県でも指折りの遊具が揃っていました。

その中でも校庭の1番南西の場所に、地面から空に向かって鉄の棒がおよそ7、8mほどの高さにおよぶ登り棒がありました。

私はクラスの男子の中でも、いち早くこの登り棒を登ることができました。
大半の男の子は、途中で力尽きて登ることができません。
しかし私は、クラスでも背が高い方ではないにも関わらず、腕と足の力が強いのか簡単に
登ることができました。

登り棒の頂上には、そのまま腰かけられる場所があり、よく空を見上げました。
下には登ることができなかった男子が、羨ましそうに見上げています。

私は得意になってこの空に近い空間で、風を感じ、雲を感じ、空の青さを感じました。

東には、太平洋から村を守る松の防風林が見えました。
西には、濃い緑の阿武隈山地が連なっています。

そして北西の方角には、あの「隠遁者」の「森」の樹々の頂上部分が、ブルーの澄んだ青空の下に幻のように霞んで見えました。
たしかに「森」は、存在していました。

ふっくらした満開の桜が校庭を、儚く彩っていた放課後、私は登り棒の頂上からトンビが飛んでいる様子を眺めていました。
澄んだ空の低いところには、わた雲が浮かんでいます。

そのわた雲の上空を、トンビが飛んでいます。
春の訪れを待ちわびたかのように鳴いています。

ピーヒョロロロ
ピーヒョロロロ


すると下から、ナオミ先生の澄んだ声が聞こえて来ました。

ユキヒロ君
話しがあります
降りて来れますか?

ナオミ先生は、いつものようにフリルの付いた白いブラウスに、柄のあるロングスカートを履いています。

ふとそんな先生に、なんだか少し悪戯をしたくなりました。

ナオミ先生
上まで登って来てください
空を眺めながら話しをしてください

ナオミ先生は、一瞬ビクッとしました。
眩しそうに、右手で光をま遮りこちらを見上げます。

無理です
そんなところまで登れません

大丈夫です
1度試してみてください
ナオミ先生ならきっと登れます

ナオミ先生は、銀縁のメガネの顔を当惑させて、しばらく考え込んでいます。
そんな様子が楽しくなって、さらに追い討ちをかけました。

ナオミ先生
こっちはとても風が気持ちいいです
あの「隠遁者の森」も見えるんです
もし登れたら
とっておきの秘密を教えてあげます
まさか登れないなんて言うことはありませんよね

しばらくナオミ先生は、儚い瞳で見上げていました。
思考を全開に巡らせます。

………

そしてようやく決心がついたのか、小さな花の飾りのある白いシューズを脱ぎ、白いソックスも脱ぎました。
おそるおそる鉄の棒を、細い指の両手で確かめるように握りました。

もし登 れなくても
クラスのみんなには内緒にしてくれますか?

はい
大丈夫です
決してみんなには言いません
約束します

ナオミ先生は、フリル付きの白いブラウスの上半身と、柄のあるロングスカートから白く細い脚を露わにして鉄の棒に飛びつきました。
そして銀縁のメガネの顔を、固い表情のまま上に向けました。

はい

気合いをかけて、細い腕に力を込めます。
下半身は、両脚で鉄の棒を挟んでいます。

顔がひきつっています。
必死にしがみついてます。

そしてようやく、右手を離してやや上を握り直しました。
早くも顔が歪み、かなり辛そうです。

そして、そのまま動かなくなってしまいました。

ナオミ先生
大丈夫?

もう無理です

もう泣きそうな表情です。

上空でトンビが鳴きました。

ピーヒョロロロ
ピーヒョロロロ


私とナオミ先生は、すぐ隣のブランコに並んで、ふっくらした桜を眺めるように腰掛けました。

もうトンビは、どこかに飛び去っていました。
澄んだブルーの空の低いところに、わた雲が浮かんでいるだけです。
だいぶ陽は傾いて来ました。

銀縁のメガネを外して、顔の汗をハンカチで拭っています。
めったに見せない素顔です。
私は、横目で凝視しました。
傾いた陽を受けて、美しいと思いました。
いつもの石鹸の香りもします。

ナオミ先生
とても惜しかったですね
ほとんど登れていませんけれど

ユキヒロ君
私をからかってますね

再び、銀縁のメガネをかけたナオミ先生は、桜のように頬をふっくらさせました。
少女のように頬を赤く染めています。

ナオミ先生
話しってなんだったんですか?
………
もう話したくなくなりました
………
でもやはり話します
………
ユキヒロ君から預かった
「キリストは再び十字架にかけられる」を
ようやく半分読みました
全部読み終えるには
まだずいぶん時間がかかりそうです
待っててもらえますか?

なんだそんなことですか?
早く知りたいですけど
ナオミ先生も忙しそうだから
待っています
そのかわり
きちんと教えてくださいね

そんなこととはなんですか?
今度は本気で怒りますよ

銀縁のメガネの奥の優しく美しい瞳が、笑っていました。

足元には、桜の花びらが風に運ばれてのか落ちています。
美しいものこそ儚いものだということが、ナオミ先生の息 づかいから感じました。

阿武隈山地に沈む夕陽はなぜか儚い
去年の夏、「大排水」の底から見つかったカナエも儚かった
………
世の中は、儚さに満ちている
儚いから美しいのか?

ふっくらした満開の桜の花びらが、風にまた運ばれて来ました。

ユキヒロ君
とっておきの秘密ってなんですか?

ナオミ先生は、銀縁のメガネの奥の儚い瞳を向けました。

それはまだ秘密です
簡単に教えたら秘密じゃなくなります
ナオミ先生から
「キリストは再び十字架にかけられる」の話しを聞けた時に打ち明けます
これでお相子ですね

澄んだブルーの空に、再びトンビが戻って来ました。
上空をぐるぐる回っています。
わた雲も微笑んでいました。


国鉄官舎の家に帰ると、純子から手紙が届いていました。
純子の好きな薄いピンク色の封筒でした。

南窓のレースのカーテン越しに、空が紅く染まっているを感じました。
あたたかく輝く学習机に腰掛けて、ドキドキしながら開封しました。

純子の懐かしい石鹸の香りが、漂って来るようでした。






信じられない優しさに満ちた空でした。
澄んだブルーの空には、ひとつの雲もありません。
涙ぐましい微笑みの空…

愛犬シーズーのシーと、いつもの散歩道の垣根付きの舗道を歩いていました。
垣根の葉は、燻んだ赤ワインのような色に染まっています。

シーは、垣根の下に顔を潜らせて匂いを嗅いでいます。
濃紺のデニム生地のジャケットの蓋付きの大きなポケットに、濃紺の手帳型のケースに包んだiPhoneを入れていました。
iPhoneからは、「ハウルの動く城」の賠償千恵子の「世界の約束」が流れています。

涙の奥にゆらぐほほえみは
時の始めからの世界の約束

いまは一人でも二人の昨日から
今日は生まれきらめく
初めて会った日のように

思い出のうちにあなたはいない
そよかぜとなって頬に触れてくる
木漏れ日の午後の別れのあとも
決して終わらない世界の約束

いまは一人でも明日は限りない
あなたが教えてくれた
夜にひそむやさしさ

思い出のうちにあなたはいない
せせらぎの歌にこの空の色に
花の香りにいつまでも生きて

この歌を初めて聴いた時、《時の始めからの世界の約束》という言葉にとても惹かれました。

《時の始めからの世界の約束》とは何だろう?
それはおそらくもっとも大切な約束のはず

ビックバンにより宇宙が始まり、たくさんの銀河が存在し、たくさんの星が輝きます。
地球では、朝陽が昇り、空が広がり、陽が沈みます。
時の始めからの現象です。

《時の始めからの世界の約束》とは、この宇宙の始めからの現象=約束なのでしょうか?


先日、朝陽が昇る頃にシーと散歩をした際、いつものようにシーがウンチをしたので、片付けようと屈んだところ、オレンジ色のカーディガンのポケットからiPhoneがコンクリートの舗道に落ちて、無惨に画面が割れました。

時の始めからの約束が!

買ったばかりのiPhoneを、取り換える痛い出費です。
それ以来、散歩には蓋付きの大きなポケットのジャケットを着ていました。


いつものように、近所のアサノスーパーに着きました。
日曜日の正午なので、駐車場には何台もの車が停まっています。
車のボンネットは、いちおうに秋の陽を浴びて眩しく輝いています。

いつも通り中央入り口の紅白の車留めに、シーのリードを結わえようとしました。
しかしちょうどその前で、30歳ぐらいの細身の女性が空を見上げていました。

淡いベージュのカーディガンを羽織り、とても鮮烈な赤いバラの模様のある薄いピンク色のワンピースを着ています。
セミロングの髪は、上品な淡いベージュのカラーです。
やや切れ長の美しい瞳でした。

何を見ているのだろう?

見上げると、やはり雲ひとつないブルーの空です。
とくに何も変わらない優しい秋の空です。
飛行機も鳥すら飛んでいません。

彼女は、同じ体勢で身じろぎせずに見上げていました。
しかしよく見ると、わずかに唇を動かしています。
何かを語りかけるように…

そして次の瞬間、右脇に何かがいるかのように右腕を肩から水平に伸ばし、そっと触れるような仕草をみせました。
大切なものを慈しむように…
赤いバラを輝かせながら…

表情が優しさに満ちていました。
秋の太陽の優しい光に、包まれています。

再び唇を動かし、何かを語りかています。
小さくゆっくり優しく…


しばらくじっと待機していました。
しかし、シーがさかんにしっぽを振って、彼女へ近づこうとします。
仕方なく、おそるおそる声をかけました。

すみません
ここに犬を結わえたいのですが
よろしいですか?

すると彼女は、一瞬ビクリとしました。
何かから目覚めたように…

あ!
ごめんなさい
気がつきませんでした

見た目よりもずっと若く澄んだ声です。
育ちの良さを感じる上品な話し方です。


私は、シーのリードを紅白の車留めにしっかり結わえながら、自分でも不思議な勇気を持って尋ねていました。

空に何か見えたのですか?

再び彼女は、ビクリとします。
そして、涙ぐましい微笑みを浮かべました。

ごめんなさい
晴れた日には、空を浮遊しているものがよく見えるのです
その中にあれがいて、私を認めるとたびたび空から降りてくるのです

そう言うと彼女は、再び雲ひとつないブルーの空を、切れ長の美しい瞳で見上げました。
秋の太陽があたたかく微笑んでいます。

しかし、私には何も見えません。
ずっと雲ひとつないブルーの空には、鳥さえも飛んでいません。

この人は、おかしなことを言う
もしかしたら、まともではなく知的障害者?
いわゆるキ印?

たちまち自己防衛で身構えました。
しかし突然、シーが大空を見上げながら吠えたのです。
普段、滅多に吠えることのないシーが吠えました。

シーどうしたの?
何かいるの?

シーは、なおも吠え続けます。
私は再び、ブルーの空を確認しました。
新たに鳥が飛んで来たのか、あるいは昆虫でも飛んでいるのか?
………
しかしやはり、天井の空には雲ひとつない青い世界が広がっているだけです。
何も認められません。

すると彼女は、先ほどと同じ優しさに満ちた表情で、シーを見つめました。

シーちゃんと言うお名前?
つぶらな瞳の可愛らしい犬ですね
シーズーですよね

今度は、正確でまともな発言です。

この人は何なのだろう?
私をからかっているだけなのか?

しかしその声を聴いて、ようやくシーは吠えるのをやめました。
今度は彼女を見上げて、さかんにしっぽを振り始めます。

秋の優しい太陽が、シーの白とゴールドの体毛を輝かせていました。

そして私は、まだ警戒心を残しながらも聞かずにはいられませでした。

あれとは何ですか?
空には何も見えません
鳥さえも飛んでいません
何が空から降りて来るのですか?

再び彼女は、涙ぐましい微笑みを浮かべます。
ゆっくりはっきり澄んだ声です。

地上から100mあたりには、アイボリー色に輝く半透明なものが浮かんでいます
それは私たちが、この人間社会で失ったものたちです
そしてその高みの空に、私の赤ちゃんもいるのです
赤ちゃんは、こうして私を認めると降りて来ます
もうカンガルーほどの大きさに成長しました
………
しかしその存在を知るには、それ相応の犠牲を払って獲得しなければなりません
それらを感じる眼と耳と心を…

空を見上げる彼女の眼には、涙が今にも溢れそうです。
しかしグッと堪えています。

びっくりしました。
とても驚きです。
そんなことがあるのだろうか?
はたしてまともなのだろうか?

アイボリー色に輝く半透明なもの…
私たちが人間社会で失ったもの…
その中からカンガルーほどに成長した赤ちゃんが、降りて来る…


またシーちゃんに会いたいわ

さかんにしっぽを振るシーを見つめたあと、赤いバラが鮮烈なワンピースの彼女は、振り向きました。

駐車場を歩く彼女の後ろ姿は、どう見てもまともです。
知的障害者にも、人をからかうような女性には思えません。
むしろ、知的で気品のある後ろ姿です…


紅白の車止めにリードを結わえたシーに、携帯用のピンク色のカップで水をあげました。

シー
どう思う?
あの人は、不思議なことを言っていたね
シーは何か見えたの?
なぜさっき吠えたりしたの?

シーは、舌を送るように上手に使い、黙ったまま美味しそうに水を飲みました。


それからようやく、アサノスーパーへ入りました。
すると待ち構えていたかのように、シーをよく可愛がってくれる犬好きの温和なパートの白髪のオバさんが、弾んだ声をかけて来ました。

シーちゃんのパパさん
あの女性と話をしたのかい
あの人は
ほら
駐車場の隣の大きな家のひとり娘だよ
………
なんでも、赤ん坊が生まれてすぐに亡くなったらしくて
いつも正午になると
ああして駐車場から空を見上げているんだよ
しかも、不倫だったという話しらしいよ


翌日も私は休みでした。
秋の空は、ひつじ雲が青い草原を並んで歩いています。

正午を待って、シーとアサノスーパーへ行きました。
私は、あの鮮烈な赤いバラの模様のワンピースの彼女に、また会いたい気持ちでした。
切れ長の美しい瞳の奥の秘密を、確かめたいと思いました。

燻んだワイン色の垣根付きの歩道を、ブルーの空を見上げながら歩きました。
やはり何もかわりありません。
白いひつじ雲のほか、アイボリー色の半透明なものなど見えません。

シーがぐいぐい前に進む具合に、アサノスーパーの駐車場へ着きました。

今日は、白いカーディガンに落ち着いた淡いグレーワンピースの彼女が、やはり空を見上げていました。
切れ長めの美しい瞳です。
やわらかく微笑んでいます。

私は、そのまま彼女を見つめました。
シーも軽くしっぽを振りながら、じっとしています。

やがて、彼女の右腕が肩まで平行に上がりました。
昨日と同じように、右脇にいる何かに触れているようです。

しばらくして彼女は、彼女の言う赤ちゃんを見送るように、優しい微笑みで、再びひつじ雲の並ぶブルーの空を見上げました。

こんにちは
今日も赤ちゃんが降りて来たのですか?

あら
シーちゃん
こんにちは
ええ
あの子は、今日も青い空にとても機嫌が良かったわ

失礼ですが
俺にはやはり、白い雲のほかに何も見えません
まだ、アイボリー色の半透明なものは見えません
俺はその存在を知れるほどに、 犠牲を払っていないということなのですか?

………
ごめんなさい
私に言えることは
何か大切なものを失った時に
空を見上げるということだけです


その秋の正午以来…
私とシーは、休みの日には必ずアサノスーパーの駐車場で、彼女と会うようになりました。
彼女は、いつも空を見上げていました。

しかし、自分のカンガルーほどに成長した赤ちゃんについて、それ以上詳しく語ることはありませんでしたし、さらに、不倫らしい相手の男のことも一切触れることはありませんでした。


やがて12月に入り、すっかり寒い日が続きました。
冬の太陽は、隠れんぼをするかのように暗い雲に覆われる日が多くなりました。
散歩すると、シーは白い息を吐きました。

そして、クリスマス・イヴを迎えました。
私は彼女に、ささやかなクリスマスプレゼントを用意していました。


クリスマス・イヴの正午…
濃紺のデニム生地のジャケットの蓋つきのポケットの中のiPhoneからクリスマスソングを流しながら、シーといつも通りアサノスーパーへ向かいました。

しかしその日も、雪模様の穢らしい黒い空でした。
駐車場は、薄っすら白い雪が覆っています。
シーは、やはり白い息を吐いていました。

彼女は、その黒い空を見上げていました。
しかも黒のレザージャケットに、あの鮮烈な赤いバラの模様のワンピースを着ています。
しかもその様子は、今までにない異様な雰囲気を漂わせていました。

なんと彼女は、ブーツではなく白いスニーカーを履いていたのです。
鮮烈な赤いバラの模様のワンピースには決して相容れない、白いスニーカーです。

私とさかんにしっぽを振るシーが近づいても、彼女は黒い空を見上げたままでした。
切れ長の美しい瞳に、翳りを感じました。

しばらくすると、ようやく私たちに気づきました。

あら
シーちゃん
こんにちは

シーは、彼女へ近づこうとぐいぐいリードを引っ張ります。

シーちゃんは
いつもかわいい子ね

彼女は、しゃがんでシーの頭を撫でました。
鮮烈な赤いバラの模様のワンピースから、白い太ももが覗いてハッとしました。
シーはやや顔を上げて、満足気に目を閉じています。

それから彼女は、憂いを帯びた顔を私に向けました。

あの子が
不機嫌なのです
こんな黒い空では
………
しかも
今日はどうしても走りたいって

彼女は、再び空を見上げました。
じっと雪模様の黒い空の高みの、アイボリー色の半透明なものたちの中の、カンガルーほど大きさの赤ちゃんに向けて…

すると、彼女は右脇に存在を認めたのか、すっと右腕を肩まで平行に上げました。
そして納得したかのように、ハッキリと言いました。

さあ
走りましょう

彼女は、鮮烈な赤いバラの模様のワンピースの裾から細く白い脚を振り上げて、走り始めました。
白いスニーカーが躍動します。

え?

突然のことに、私は呆気にとられました。
しかし、すぐにシーに声をかけました。

シー
行くよ
あとを追うんだ

鮮烈な赤いバラの模様のワンピースに白いスニーカーの彼女は、駐車場を出ると、いつもシーと散歩する燻んだワイン色の垣根付きの舗道を東へ向かいました。

しかも、彼女は右脇に何かが伴って走っているように視線を送っています。
カンガルーと走るように…
颯爽と…

意外なほど、その速さに驚きました。
シーは、短い両足を精一杯に伸ばします。
私も、日頃の運動不足を恨みながら必死に追いかけます。
しかし、息が続きません。

やがて、松の樹に囲まれた公立中学校を過ぎ、国道6号線へと進みました。
普段から、とても交通量の多い国道です。
行き交う車の轟音が、鳴り響いています。


交差点の信号機は青でした。

しかし、彼女ともうひとつの存在が車道へ降りた瞬間、信号機が変わりました。

彼女は立ち止まりました。

刹那、停車していた貨物トラックが走り出します。
その瞬間でした。
彼女は、悲痛な叫び声を上げました。

何ものかを助けるように両手を前に差し出し、トラックへと飛び出しました。

一瞬で彼女は、大きく弾き飛ばされました。

薄っすら雪の積もった舗道に、鮮烈な赤いバラの模様のワンピース姿が、9の字になって横たわっています。
赤いバラの模様の周りにも、真新しい赤い模様が広がり始めています。

信じられない光景の中で、激しく動揺しながらも、ひざまづいて彼女を抱えました。
全身が激しく震えます。

アスファルトの舗道には、ワンピースの赤いバラよりも鮮明な液体が滴り落ち続けます。
薄汚れた場所に、生命の尊い証しが吸い取られます。

ちょうど私の濃紺のジャケットのポケットのiPhoneからは、山下達郎のクリスマス・イヴが流れていました。

あー
今日は、クリスマス・イヴだというのに…


金髪の若い男が、青ざめた顔で近づいて来ました。
遠くから救急車のサイレンも微かに聞こえます。
自殺だという言葉が、耳に入ります。
ざわめきが大きくなって来ました。

シーは、もう吠え続けています。
見たこともない激しい勢いで、吠えています。

すると、鮮烈な赤いバラの模様のワンピースの脇からアイボリー色の半透明な存在が、上昇して行くように感じました。

彼女の赤ちゃん

シーは、空に上昇する存在に向かって、さらに強く激しく吠えました。

見上げると、雪模様の黒い空の一点が裂けて、一筋の光が彼女の美しい顔の赤い液体を輝かせていました。

《時の始めからの世界の約束》とは、なんだろう
こんなことが起きてしまう世界の約束とは、何だろう






マリアの音色


軽井沢万平ホテルは、秋の陽が注がれ半分紅と黄色に色づいた樹々に囲まれていました。

昭和初期に建てられた白い壁の趣きのある本館アルプス館は、3階建ての木造建築です。
中央の玄関に入ると、赤い絨毯が広がり、落ち着いたレトロな雰囲気がタイムスリップしたかのようです。

低い天井からは、丸い電燈がぶら下がり、壁にはステンドグラスが並んでいます。
左手の赤い絨毯を進むと、細長く全面ガラス窓のカフェテラスの室内席と、屋外席がありました。

かつて、ジョン・レノンファミリーが避暑のために滞在し、お気に入りであったカフェテラスは、日曜日とあって多くの観光客で賑わっていました。


あたたかな日差しが、カフェテラスの室内席に注がれています。
窓ぎわの四角い木製のテーブル席に、腰を下ろしました。
紅と黄色に染まった樹々が、秋の深まりを感じさせます。
ジョン・レノンが直伝したというロイヤルミルクティーを飲みました。
イマジンを歌うレノンの声が、聴こえて来そうです。


マグダラのマリアは、かぶっていた黒いキャップを隣の椅子に置き、眩しそうに長い睫毛の二重瞼を細めながら、窓外に目を向けました。
やはり、奇跡的な美しさです。
いつも通り、耳には白い花形のVan Cleefのピアス、首にも白い花形のVan Cleefのペンダント。
そして、クロエオードパルファムの香り…


朝のミサで会ったあの杖の外国人女性は、俺が初めてミサに参列した時に、このハンカチを拾ってくれた女の子だったんだよ

薄いベージュのタオルハンカチを、木製テーブルに広げました。

この犬の刺繍
シーに似ているでしょ?

わー
そうね
白とベージュの模様が
シーちゃんを思わせるわね

彼女は、タオルハンカチを手に取りました。
そっと、刺繍の犬を撫でます。

あの女性は
シーのことを神の子だと言ってくれた
神様の導きであり
さいわいをもたらすと

ふふふ
シーちゃんは
何か不思議な力を持っているかもね


そして他にもあの女性から、運良くとても貴重な情報を入手できたのです。
何年か前に、1人の男がよくミサに訪れていました。
男は洗礼を受けており、しかも、端正な顔立ちだというのです。

もしかしたら、その男が教会の写真を送ったお父さんかもしれないね

……
ええ
そんな予感がします


そのあと記念に、万平ホテルの名物でもあるアップルパイも食べてみました。
彼女は、美しい顔に満面の笑みです。

とても美味しい!
軽井沢にいる間、毎日食べたいぐらい
デフ活ファイトです


カフェテラスを出たあと、やはりジョン・レノンが気に入ったというピアノを見に行きました。
そこで、なんと彼女は鍵盤を弾きました。
イマジンです。
 
Imagine there's no heaven
It's easy if you try
No hell below us
Above us only sky
Imagine all the people living for today 

想像してごらん 天国のない世界を
やってごらん 簡単なことさ
僕らの足元に地獄はなく
上にあるのは青空だけ
想像してごらん 今日という日のために生きているみんなを


周りの観光客は、足を止めました。
彼女は、やはりピアノが弾けました。
「森の隠遁者」のように…

ねえ
もしかしたらRavelも弾けるの?
「亡き王女のためのパヴァーヌ」を?

ええ
弾けるわよ
最初に母から教わった曲ですもの


窓から一筋の光が差し込んでいます。
彼女は、長く美しい指を奏でました。
あのRavelの「亡き王女のためのパヴァーヌ」です。

万平ホテルの低い天井の室内に、ピアノの音色が響き渡ります。
あのかなしく儚い旋律が…

かつて、「森」がコンサートホールのように響き渡り、樹々が共鳴した時のように…


マグダラのマリアの横顔は、儚い旋律のような美しさでした。
シーが神の子なら、やはり彼女はマグダラのマリアです。






小さな白い雲


「一本松」の黒く逞しい幹から太い枝を登ると、松の葉がぽっかり開いている「展望台」と呼んでいた空間があります。
「展望台」から空を見上げました。

澄んだ青空にうろこ雲が、気持ち良さそうに並んでいます。
春の太陽は、すべてを一新させ、新しい命に微笑んでいます。

周りの田んぼは、冬を越してようやく雪も溶けました。
畦道には、目新しい雑草が力を漲らせています。

しばらく、春の風を感じました。
田舎の匂いがします。
土や草や花や、田んぼや畑や生き物なんかが混ざった懐かしい匂いです。

しばらくすると、太陽の光で眩い北方の畦道を、誰かが歩いて来ます。

どうやらまだ若い女性のようでした。

あ!
純子ちゃん

グレーのパーカーにジーンズを履いた純子でした。
「一本松」へ手を振ります。
一足先に桜が咲いたような笑顔でした。

おはよう
純子ちゃん

おはよう
ゆうちゃん
私も登ろうかな

黒く逞しい幹から太い枝を伝って、登って来ました。
少し息を弾ませています。
石鹸の匂いがしました。

ついたー
しんどいねー

大丈夫?

ハハハ
ゆうちゃんは
いつも「展望台」に登っているね
何を眺めているの?

いろいろだよ
ここからだと世界がよく見えるような気がして

そうかもね
見晴らしはいいものね

しばらく私たちは、黙ったまま世界を眺めました。
空や雲や太陽や月や星と、土や草や花や樹や生き物たちの世界です。

太陽がすべてを育み、月や星が闇を照らします。
食物連鎖が行われ、命が引き継がれます。

ゆうちゃん
明日、大学に通うため仙台に行くよ

うん
わかってる

手紙書くから

うん
返事書くよ

純子は、細く長い指で手を握ってくれました。

それから
この本はまだむずかしいと思うけど
中学生になったら読んでみて

純子のスチール製の学習机に置かれていた、ニコス・カザンザキスの「キリストは再び十字架にかけられる」でした。

純子は、握った手に力を込めました。
何かの合図でした。
最後の温もりでした。

私は、ついに最も気になっていたことを口にしました。

純子ちゃん
もう「隠遁者」には、会いに行かないの?

………
そうね
もう会わないかもしれないわね
………
でもピアノはだいぶうまくなったから
落ち着いたらピアノ教室にでも行こうかしら

………
なら
いつかあの曲聴かせてね

ええ
うまくなったらね

うん
楽しみにしているよ
純子ちゃんの分まで「森」の声を聴くから

………

純子は黙ったまま、地球の始まりから続く、澄んだ青い空を見上げました。
小鳥がさえずっています。

長い睫毛の美しく儚い瞳です。
その美しさを、ずっと忘れまいと思いました。


翌日、雲ひとつない快晴でした。
純子が、国鉄官舎から去りました。

私は、祖父に買ってもらったブルーの自転車に乗って、ナオミ先生の下宿先である松林に囲まれた大きな農家へ向かいました。

天井は見渡す限り澄んだ青さです。
雲はひとつも見当たりません。

風が、少しだけ冷んやり頬に触れます。
松林がざわめきます。

畑のような広い庭には、名前の知らない色とりどりの花が咲いていました。
ビニールハウスが、白く輝いています。
数羽のニワトリが、神経質そうに歩いていました。

ナオミ先生は庭先にいました。
白いフリルの付いたブラウスがとても眩しく、長い黒髪を後ろでひとつに束ねています。

あら
ユキヒロ君
こんにちは
 
こんにちは
ナオミ先生
何をしているんですか?

この小さな鉢にね
種を植えたんです
月下美人です
知っていますか?

はい
月下美人なら知っています
秋に「隠遁者」の家で見ました

………
そ、そうなのですね
「隠遁者」の家で…
………
先生はまだ見たことがないので
ぜひ咲かせてみたいです

ナオミ先生は知っていますか?
月のない夜に咲くんです
朝には萎んでしまいます
とても匂いが強くて
白く美しい花でした

そうですね
夜にだけ咲く神秘的な花ですね
先生も早く見てみたいです

ナオミ先生は、銀縁のメガネの奥の澄んだ瞳をきらめかせながら微笑みました。
石鹸の香りがします。

ナオミ先生
お願いがあります
この本もらったんですけど
僕にはまだむずかしいので
ナオミ先生が読んで
どんな本か教えてもらえませんか?

薄いブルーの手さげ袋から、分厚い本を取り出しました。
純子からもらったニコス・カザンザキスの「キリストは再び十字架にかけられる」です。

………
先生も
見たことない本ですね
ニコス・カザンザキス?
「キリストは再び十字架にかけられる」?

ナオミ先生は、分厚い本を手に取りページをめくりました。

キリストは再び十字架にかけられる?
………
そういえば前に
ユキヒロ君から質問されたことがありましたね
キリストは再び十字架にかけられるのかって?

はい
純子ちゃんの家でこの本を見てから
疑問に思うようになりました
だから
ナオミ先生に読んで
教えて欲しいんです

春の穏やかな日差しが、縁側の廊下に注いでいました。
黒ずんだ木目まで鮮やかです。
並んで、日清カップヌードルを食べました。
細くて少し縮れた麺にも慣れました。

ユキヒロ君
「森」へはまだ通っているんですか?
今でもピアノは、奏でられているんですか?

はい
毎晩、「森」の中でピアノが響き渡るのを聴いています
「森」は、いろいろなことを話してくれます
ナオミ先生にもわかるでしょう?

ええ
あの時はとても感動して
涙が出てしまいましたね
ユキヒロ君は
ずっとあの声を聴いているんですね

ナオミ先生は、「キリストは再び十字架にかけられる」の分厚い本を見つめました。
美しい黒髪が、陽に照らされています。
艶やかに光っています。
小さな口が、花びらのように開きました。

アメリカの大学に留学していた時にね
トウモロコシ畑が地平線まで続いていたんです
朝陽が昇ると
トウモロコシ畑が燃えるようでした
壮大な光景です。
人間はちっぽけな存在でしかありません
大切なことを見失わないように
そう思いました

はい
僕も「森」の声から
小さな命のささやきを聴いています

春の陽が、松林を眩く輝かせていました。
ふと、小さな白い雲がひとつだけ浮かんでいるのに気づきました。

澄んだ青空に、不思議と小さな白い雲がひとつだけ浮かんでいました。






信じられない真実に満ちた微笑み
 

丸太を重ねた壁の南窓には、柄物のベージュのカーテンが引かれています。
遮光カーテンのため、隙間から僅かに朝日が溢れるだけです。
高原の澄みきった静謐な空気を感じます。

iPhoneから辻井伸行のピアノで、Ravelの「亡き王女のためのパヴァーヌ」を流しました。
悲しく儚いピアノの音色が、幼年時代の記憶の「森」を蘇らせます。

アントワープ大聖堂のルーベンスの「キリスト降架」のイエスの顔に、そっくりだった「森の隠遁者」が思い出されます。

リビングルームから、マグダラのマリアの澄んだ声が聞こえて来ました。
どうやら、シーに話しかけているようです。

iPhoneを手にドアを開けました。
東壁側の木製タンスの上に置かれた円柱型の電気スタンドだけが、部屋をあたたかく灯しています。
彼女もシーも、慈愛に満ちた灯りに包まれていました。

おはよう
何を話ししていたの?

おはよう
ふふふ
それはシーちゃんに尋ねてみて

彼女はまだ、濃紺色のミニオンの絵柄のパジャマのままです。
シーは、彼女を見上げてさかんにしっぽを振っていました。

シーの白とゴールドの体毛が、美しく照らされています。
部屋中に、Ravelの「亡き王女のためのパヴァーヌ」が響きました。

悲しく儚く美しい曲…
この曲を聴く心を持つことは、とても大切なことです。
悲しみを知るものだけが聴ける曲…
悲しみを知るものだけに届く曲…

シー
おはよう
何を話ししていたの?


朝の聖パウロカトリック教会は、厳かな静けさに包まれていました。
鋭角な屋根の上には、十字架が聳えています。
今年のゴールデンウイークに、シーと訪ねた以来です。

周りを取り囲む樹々が、いくぶん紅い色に染まっています。
北の空のうろこ雲の下には、黒に近い深い緑色の浅間山が聳えていました。
高原の冬は、もうすぐです。


正面扉を開けました。
薄暗い聖堂には、日曜日ということもあって、すでに10名ほどの参列者が、中央の通路を挟んで左右に並ぶ木製の長椅子に、順番に腰掛けていました。

祭壇の奥には、変わらず十字架に磔にされたイエスの像が飾られています。
じっとイエスの顔を、見つめました。

社会人になってすぐの6月、世間から逃げるように軽井沢へやって来ました。
そしてよく晴れた朝、聖パウロカトリック教会のミサへ初めて参列しました。

あの時の光景が、蘇って来ました。

そう、あの時…


(以下、「シーとヴィア・ドロローサ」より)

やがて司祭が現れ、ミサが始まりました。
司祭は、初顔の私を一瞥しました。

その後、どのようにミサが進められたのかは具体的には覚えていませんが、聖歌が歌われ、アーメンを唱えました。

そして、聖体拝領が始まり、司祭から参列者にパン(聖体)が授けられました。
何もわからない私は、他の参列者と同じように、パン(聖体)を授かれると思い、祭壇の前に立ちました。

あなたは洗礼を受けておりませんね

司祭は、初顔の私に確認しました。
当然、パン(聖体)を授けてもらうことはできません。
それでも司祭は、頭の上に手を置いて、祝福してくださいました。

私は、自分の無知が恥ずかしくなり、顔が紅潮しました。
すると、右側の最前列の席に座っていた白人の少女が、クスッと笑ったように感じました。
私は余計に恥ずかしくなり、すぐに少女の後ろの木製の長椅子の席に戻りました。

斜め前方の、少女の横顔が見えました。
金髪でお下げ髪の、まだ小学校低学年ぐらいの少女です。
彼女は、微笑みながら掌を合わせ、黙祷していました。

閉祭の歌が歌われ、司祭は退堂しました。
私は座ったまま、ミサの余韻に浸っていました。
十字架のイエスの像から、なにかを感じていました。

ふと、イエスがゴルゴダの丘へと、十字架を背負い歩いていた時、彼を憐れみ額の汗を拭うようにと、自らのベェールを差し出した女性がいたことを思い出しました。

どうか祝福を
アーメン

そう心の中で呟いた時、ようやく先ほどの少女が、目の前に立っていることに気づきました。
はち切れんばかりの可愛らしい笑顔でした。

You dropped something. Is this yours? 
あなたは何かを落としました
これはあなたのものですか?

少女はそう言って、タオルハンカチを差し出しました。
それは私のハンカチでした。
どうやら、先ほど祭壇の前に立った時に、ズボンのポケットから、知らず知らずに落としてしまったようです。

ありがとう

私は、慌ててお礼を言って受け取りました。
彼女が、日本語を理解していたかはわかりません。

It’s my pleasure.
どういたしまして、嬉しいです

少女は、ニコリと微笑みました。
そして、扉の前で待つ両親のもとへ、お下げ髪の先を、ぴょんぴょん跳ねらせながら走って行きました。
まだ若い両親は、娘の行いを讃えるかのように、両手を拡げて彼女を迎えました。

そんな光景を眺めながら、私は無意識のうちに、額の汗をそのタオルハンカチで、拭っていました。
汗が染み込んだそのハンカチには、1匹の犬が刺繍されていました。

あの子は
ハンカチを落としたのを見て笑ったんだ

祝福あれ


十字架に磔にされたイエス像は、遠いむかしの初めてのミサでの光景を蘇らせてくれました。
遠くもあり昨日のことでもあるような記憶の一片を…

そうだった
あの時、おさげ髪の白人の女の子が、落としたタオルハンカチを拾ってくれたんだ
そして、汗を拭ったそのタオルハンカチには
1匹の犬の刺繍がしてあった…

イエスが、重い十字架を背負いながらゴルゴダの丘へ向かう途中、イスラエルの敬虔なヴェロニカという女性が、自らのヴェールを差し出しました。
イエスが申し出を受けて、額の汗を拭い彼女にヴェールを返すと、そのヴェールにイエスの顔が浮かび上がったという奇跡が起きた…


するとその時、扉が僅かな音とともに開きました。
聖堂に一筋の光が差し込みます。

振り向くと、杖を持った1人の白人の女性が立っていました。
歳は30代後半ぐらいでしょうか。
金髪に、年齢に不似合いな三つ編みにしています。

白の花柄のワンピースに、薄いピンク色のカーディガンを羽織り、杖をつきながら左足を引きずるようにゆっくりと歩き出しました。

コツコツコツ

杖の音が、静寂な聖堂に響きます。

すると、最前列に腰掛けていたやはり中年の女性が、すぐに彼女のもとへ駆け寄りました。
一言声をかけて、肩を抱いて歩行を助けます。

コツコツコツ

ちょうど私の脇を通る時、彼女は、私を一瞥して微笑んだような気がしました。

ようやく最前列まで進むと、周りの方たちに軽く会釈をして腰掛けました。

薄暗い中、マグダラのマリアは、その様子をじっと黙ったまま見つめていました。


やがて司祭が現れ、ミサが始まりました。
賛美歌が歌われます。
マグダラのマリアは、少し高めの澄んだ声で歌っています。
美しい声でした。

聖体拝領の際に、その三つ編みに杖の女性は、やはり中年の女性の助けを借りながら、司祭からパン(聖体)を授かりました。

私とマグダラのマリアは、クリスチャンではないので、司祭が頭に手を乗せて祝福してくださいました。
彼女は、目を閉じて司祭の手を感じています。
その横顔は、奇跡的な美しさでした。

私も22歳の時以来の祝福です。

もうずいぶん長い年月が経ってしまった
でもまだ何も解決できていない…

その後、三つ編みの杖の女性を、後ろから眺めました。
目を閉じ掌を合わせて、黙祷を捧げています。

どこかで会ったことがあったかな?

ミサの間も、ずっと気になっていました。
そして、もしやという思いに至りました。


司祭が退堂し、ミサが終わりました。
マグダラのマリアは、やはり黙ったまま祭壇を見つめています。
仄かな灯りに照らされた十字架のイエスの像を、じっと見つめています。
何かを感じているようでした。

私も、十字架に磔にされたイエスの顔から、ルーベンスの「キリスト降臨」と、あの「森の隠遁者」を感じました。


先ほどの三つ編みの杖の女性が、やはり中年女性の助けを借りながら立ち上がり、再び杖の音を響かせました。

コツコツコツ

私は中央の通路に立って、彼女を待ちました。

おはようございます
突然、申し訳ありません
私はオオツキと申します
たいへん不躾ですが
1つお尋ねしたいことがあります
よろしいでしょうか?

彼女は、優しい澄んだ青い瞳をしていました。

おはようございます
どうぞ
どうぞ
おっしゃってください

はい
ありがとうございます
昭和が終わろうとしていたずいぶんむかしに
初めてこの教会のミサに参列いたしました
私はクリスチャンではないのにも関わらず
司祭からパンを授かろうとしてしまいました
その際に落としたハンカチを、拾ってくださったのは、あなたではなかったですか?
………
もうずいぶん前のほんの些細なことですから、当然、覚えていらっしゃらないと思われますが…

彼女は、一瞬天を仰ぐように上を向きました。
澄んだ青い目を閉じます。
そして、優しい瞳を開きました

そうですか
それは私がまだ不自由なく走ることができた幼い頃ですね
たしかに祭壇で拾ったハンカチに、かわいらしい犬の顔が描かれていた記憶は残っております
その時の方が、あなたなのですか?

はい
私です

私は、シーとの散歩用のライトブルーのショルダーバッグから、薄いベージュ色のタオルハンカチを取り出しました。
そして、彼女の前に広げました。

彼女は、一瞬驚いた表情を見せたあと、再び少女のように微笑みました。

そうでしたね
思い出しました
この犬の刺繍でした
よく大切にされていましたね

はい
この犬の刺繍のハンカチは
ずっと思い出とともに大切にしていました
あらためて見ると
白にベージュの模様の犬の顔でした
今、私は、この刺繍の顔によく似た犬と暮らしています

………
そうでしたか
それはきっと
主のお陰ですね
主のお導きです
感謝を捧げてください

はい
あなたとまたお会いできて
とても嬉しく思います
本当にありがとうございました

マグダラのマリアは隣で、じっと彼女を見つめていました。
尊敬と憧れの表情とともに…
クロエオードパルファムの香りとともに…

シーという名前なんですよ
今朝は、ミサに参列するためホテルに預けておりますが
とても大きな瞳のシーズーなんです

自分の赤ちゃんを紹介するママのように弾んだ声です。

はいはい
そうでしたか
………
きっとその子は神の子です
必ずさいわいをもたらすでしょう

三つ編みの杖の女性は、信じられない真実の優しさに満ちた微笑みを浮かべました。

私には彼女が、十字架を背負いゴルゴダの丘へ向かったヴィア・ドロローサ(悲しみの道)で、イエスに自らのヴェールを差し出したイスラエルの敬虔なヴェロニカという女性に思えました…

そして私とマグダラのマリアは、三つ編みの杖を持った女性の掌に、自分たちの掌を重ねました。

するとちょうど扉が開き、再び一筋の光が、私たちの方へ差し込みました。

キリストは再び十字架にかけられる






美しい声


よく晴れた秋の日曜日。
空は、たくさんのひつじ雲が、雲の底に薄灰色の影をつくりながら浮かんでいました。

白いレースのカーテンから陽射しが差し込む、茶の間の畳に寝転んで、箱型の大型のカラーテレビで「仮面ライダーV3」を観ました。

もうすぐ、悪の組織ショッカーの首領の正体が明らかにされようとしています。
全国のほとんどの子供たちが、固唾を飲んで画面に釘付けになっていました。

「仮面ライダーV3」が終わると、国鉄官舎の裏にあるコンクリート造りの物置から、祖父に買ってもらったブルーの自転車を出して、ペダルを漕ぎ出しました。

爽やかな秋の風を、頬に感じます。
道端にはススキの穂が、銀色に輝いていました。

常磐線の踏み切りを越えました。
線路が南から北へと真っ直ぐに続いています。

以前は、冷たいレールに耳をつけて列車の振動を感じました。
独特の匂いがしました。

線路の果てには、新しい世界が広がっています。
大人になれば未知の世界へ、心が踊りました。

高度成長期の日本では、安保闘争が鎮火し、連合赤軍の浅間山山荘事件によって、若者たちによる政治闘争は終焉を迎えていました。

軽井沢の浅間山荘では、クレーン車の大きな銀色の鉄球が打ち込まれました。
朝からずっとテレビ中継も続きました。
父も母も無言で、じっとその光景を観ていました。

若者が目指したユートピアの終焉でした。

何かが間違っていました。

しかし敗戦後の日本が、ようやく先進国へ仲間入りをする一歩でもあり、新しい日本へと移行する区切りでした。

そして、こんな東北の太平洋沿岸の田園が広がる小さな農村は、日本で起きるあらゆる事象から取り残された、ちっぽけな存在でした。

キリストは再び十字架にかけられる

ふと口に出ました。


ひつじ雲に習うようにしばらく進むと、日差しを浴びた松林に囲まれた大きな農家が見えて来ました。
ナオミ先生の下宿先です。

今日は、ナオミ先生から本を借りる約束をしていました。
畑のような広い庭に入り、ブルーの自転車を停めました。
ビニールハウスは、日差しによって白く輝いています。
ニワトリが数羽、無表情のまま我が物顔で歩いていました。

ナオミ先生は、笑顔で迎えてくれました。
日曜日でも、白いフリルの付いたブラウスに黄色のカーディガンを羽織り、いつものロングスカートを履いています。
やはり、純子と同じような石鹸の香りがしました。

おはよう
ユキヒロ君
よく来たわね

おはようございます
ナオミ先生

暖かな秋の日差しが注ぐ縁側に、腰を下ろしました。
ナオミ先生は、小瓶のファンタオレンジを持って来てくれました。

はい
この2冊ね

ナオミ先生
ありがとう

宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」と、灰谷健次郎の「兎の眼」です。
とくに「兎の眼」は、その年に出版されたばかりの、主人公の若い女性教師の奮闘が描かれた話題の一冊でした。
ナオミ先生は、同じ新米教師として感銘を受けたらしく、とてもいい本だとススメてくれました。

本を手に取り、ページをめくりました。
ずっと心の奥底にしまっていたことを、勇気を出して尋ねようと思いました。
ファンタオレンジが、口の中で広がりました。

ナオミ先生
質問があります
純子ちゃんは
「キリストは再び十字架にかけられる」
という本を読んでいました
キリストが再び十字架にかけられるって
本当なんですか?

………
ごめんなさい
それはとてもむずかしい質問ね
キリストはとてもむかしの人だから
再び十字架にかけられるどうかは
先生にもわからないわ

………
そうなんだ
ナオミ先生でもわからないんだ

………
ごめんなさいね
先生でもすべてのことが
わかるわけではないのよ
でもよくそんなことを考えましたね

うん
なら
「隠遁者」の「森」が燃えてしまうことは
ありますか?

え?
「隠遁者」の「森」?

はい
僕の家の裏の「隠遁者」の「森」です

そ、そうね
………
きっと大丈夫よ
「森」が燃えてしまうことは
めったにないことです
そのようなことはあってはならないことです

この間、夕陽に染まる山を見ていたら
「森」が燃えると思ってしまったんです
………
本当に大丈夫ですか?
「森」が燃えたら困るんです
あの「森」は、毎日ピアノの音色が響き渡るんです
毎日、「森」の声を聴いているんです

………
そう
そうなのですね

ナオミ先生も、1度「森」の声を聴いてみてください
「森」は、とても大切なことを話してくれるんです


そのあとお昼ご飯に、当時珍しかった発売されたばかりの日清のカップヌードルをいただきました。
お湯を注いで3分待つだけで食べれることに、とても驚きました。
ナオミ先生と2人で、時計とにらめっこをしました。

秋の日差しが縁側に注ぎ、ナオミ先生の顔がより一層眩しく見えました。
銀縁のメガネの奥の瞳は、育ちの良い上品な優しさに満ちていました。
純子やカナエと同じ、澄んだ眼をしていました。

はい
3分経ちました
熱いから気をつけてね

なんかへんな味
でも美味しいです

ふふふ
よかったわ

ナオミ先生は、一瞬、大人の女性というよりも少女のような幼い笑顔を見せました。

そしてその晩、ナオミ先生と「隠遁者」の「森」の声を聴く約束をしました。


家に戻るとさっそく、午後の日差しに包まれたスチール製の学習机に向かって、まず「銀河鉄道の夜」を読みました。

「やけて死んださそりの火」のエピソードと、「ほんとうのみんなのさいわい」が書かれていました。
カンパネルラが友だちを助けて溺れてしまい、ジョバンニは、牛乳と父の知らせを持って母の元へ帰りました。

ほんとうのみんなのさいわいとは何だろう?

わたくしという現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です


紺碧色の空には、半月が周りを仄かに白く幻想的に育んでいました。
少し南には、「南のひとつ星」とも言われるフォーマルハウトが水精のようにひときわ輝いています。

ナオミ先生と手を繋いで「森」の入り口まで来ました。
細く長い指に、指を絡ませてました。
ナオミ先生は、懐中電灯を照らしていましたが、足下を僅かに明るくするだけです。

ナオミ先生
懐中電灯はいらないよ
僕が道案内するから

真っ暗な「森」の中の、けもの道のような細い路を、雑草を踏みしめながら歩きました。
ナオミ先生は、手を繋ぐだけではなく、肩を抱き寄せるようにしています。
少し怖いのかもしれません。

やはり純子と同じ石鹸の匂いがしました。
優しい匂いです。
やがて、樹々が密集する「森」の中心に着きました。

ナオミ先生
上を見て

樹々の枝と葉の隙間から、半月の幻想的な白い姿が覗いています。
それは、夜空を見上げることの知らない人間には、想像もつかない美しい現象です。

月があたりを白く仄かに漂わせることを知るのは、動物や鳥や昆虫や植物たちです。
曇りなき眼を持ち得たものだけです。

わー
美しい

ナオミ先生は、澄んだ瞳を向けました。

樹々の隙間から覗く半月は、遠い宇宙空間からあたかも「森」と交信しているかのようです。
384400kmの距離から、「森」の声を聴いていました。

やがて、いつも通りピアノの音色が聴こえて来ました。
Ravelの「亡き王女のためのパヴァーヌ」です。
樹々が揺れます。
「森」が、ざわめき始めます。

ナオミ先生は、上を向いたまま眼を閉じました。
私を、しっかりと抱きしめました。

ピアノの音色が、徐々に大きくなって行きます。
あの悲しく切なく儚い旋律が、樹々に届きます。
やがて、「森」は、コンサートホールのように響き渡りました。
樹々が共鳴します。

ナオミ先生は、少し震えていました。
泣いていたのかもしれません。
膝をつき、私の背中に両手を回して、強く抱きしめます。

ナオミ先生
どうしたの?

………
ありがとう

小さくも儚く美しい声でした。

樹々の隙間から覗く幻想的な白い半月が、スポットライトのように私たちを照らしています。
「森」に包まれました。
やがて「森」の声が聴こえて来ました。






世界の約束


樹々に囲まれたコテージは、秋の夕闇に包まれました。
浅間山も、闇の中です。

紺碧色の空には、たくさんの星が散りばめられていました。
高原の澄んだ空気が、夜空を大きくします。
星たちが手に届きそうです。


やはり少し冷えました。
8畳ほどのリビングのヒーターと、床暖房を点けました。

天井から吊るされた傘のついた照明と、窓ぎわの木製のタンスの上の電気スタンドが、リビングを暖かい色に包んでいます。

中央の四角く白い木製のテーブルには、てるてる坊主が置かれていました。
掃除担当者の心遣いです。

明日も晴れますように


iPhoneからは「ハウルの動く城」の倍賞千恵子の「世界の約束」が流れていました。

涙の奥にゆらぐほほえみは
時の始めからの世界の約束

いまは一人でも二人の昨日から
今日は生まれきらめく
初めて会った日のように

思い出のうちにあなたはいない
そよかぜとなって頬に触れてくる
木漏れ日の午後の別れのあとも
決して終わらない世界の約束

いまは一人でも明日は限りない
あなたが教えてくれた
夜にひそむやさしさ

思い出のうちにあなたはいない
せせらぎの歌にこの空の色に
花の香りにいつまでも生きて


晩ご飯を食べました。
ショッピングプラザからの帰りに道、JR軽井沢駅で販売されている名物「峠の釜めし」を買いました。

マグダラのマリアは、すでに黒いパーカーに着替えています。
いつも通り、耳には白い花形のVan Cleefのピアス、首にも白い花形のVan Cleefのペンダント。
そして、クロエオードパルファムの香り…

彼女にとって、初めての軽井沢です。
普段ほとんどお酒を飲まない彼女が、珍しく缶のピーチカクテルを飲みました。
私は、軽井沢では必須の軽井沢高原ビールと一緒に、「峠の釜めし」を食べました。

乾杯!
シーちゃんも乾杯


シーには特別、普段よりも多めにカリカリご飯を盛りました。
赤く丸い容器に、パックからカリカリご飯を入れ始めると、ちょっとだけ舌を出して、何度もぴょんぴょん飛び跳ねます。
喜び爆発です。

最高に愛おしい瞬間です…

でもシーは、あっと言う間に平らげます。
そして、私と彼女の「峠の釜めし」を、じっと見上げます。

シーちゃん
足りないのかしら?

いつものことだよ
これ以上おデブになったら
また獣医に叱られてしまう

彼女は、シーの頭を優しく撫でました。
シーは、やはりちょっと舌を出して、やや上を向いて目を閉じます。

シーちゃん
デブ活は私だけでいいみたいね


白い木製のテーブルには、てるてる坊主の他に、例の白い封筒が置かれていました。
宛名は、女性の名前です。

星純子様

便箋はなく、写真が1枚だけ入っていました。

樹々に囲まれ、鋭角な屋根に十字架が聳える小さな教会…
右奥には、1本の満開の桜が見えました。

この教会がどこの教会か?
すぐにわかったわ
有名な教会だったから

うん
俺も、ちょうど今年のゴールデンウィークに
シーを連れて、何十年ぶりに訪ねたばかり
だったから、すぐに気づいたよ
軽井沢の聖パウロカトリック教会だってね

昼間に、この白い封筒の宛名を見た瞬間から、心の奥底がずっと激しく揺さぶられていました。

星純子様?


小学校時代を過ごした太平洋沿いの田園が拡がる農村が、蘇って来ました。

私の住んでいた国鉄官舎には、当時、姉のように優しかった高校生の純子も住んでいました。
彼女は、長い睫毛の儚い瞳のとても美しい少女で、弁護士を目指していました。

また、国鉄官舎の裏には竹と広葉樹の「森」がありました。
「森」の奥には、「隠遁者」と呼ばれていたある男が、痩せた白い犬と暮らしていました。

満天の星たちの下、「森」の中でいつも「隠遁者」が奏でるピアノの音色を聴きました。

Ravelの「亡き王女のためのパヴァーヌ」です。

「森」は、毎夜コンサートホールのように響き渡り、樹々が共鳴しました。

それは、ある夏に溺れて死んでしまった、幼馴染のカナエに向けての鎮魂歌でした。
よく純子と手を繋いで「森」に包まれ、ピアノの音色に身を委ねました。

やがて「森」の声を聴こうとしました。
そして、幼い頃に刻まれた思いと謎は、今でも心の奥に秘められていました。

キリストは再び十字架にかけられる


晩ご飯を食べ終えたあと、私たちは、樹々に囲まれたコテージの外に出てみました。

紺碧色の空は、はるか彼方から長い旅の末にようやく辿り着いた星たちの1つ1つの輝きに満ちていました。

樹々の間の細いアスファルト道路に沿って、コテージが並んでいます。
どの窓にも、暖かな幸せな明かりが灯されていました。

シーは仄かな明かりの下で、楽しそうに歩いています。
樹の根元に鼻先をつけて、匂いを嗅いでいます。

星純子さんは、お母さんなの?

………
ええ
そうよ

やはりそうか
………
明日の朝
聖パウロカトリック教会のミサに
参列してみよう
何かわかるかもしれないから

はい

彼女は、紺碧色の星たちに満たされた夜空を見上げました。
その長い睫毛の儚い瞳は、やはり記憶にある純子と同じでした。

彼女は、奇跡的に美しく儚い存在です。
純子の辿った運命が、どのようなものであったのか?
それは、これから徐々にわかるでしょう。

そしておそらく「森の隠遁者」が、深く関わっているはずです。

シーが突然、吠えだしました。
星たちに向かって、何かを訴えるかのように吠えました。

星たちが、はるか彼方から光を届けるのは、時の始めからの世界の約束です。

涙の奥にゆらぐほほえみは
時の始めからの世界の約束






たくさんの星が、散りばめられていました。
南の空の低いところに白く輝いているのは、フォーマルハウトです。
天頂近くには、ペガススの大四辺形も見えました。

救急車のサイレンが聞こえました。

愛犬シーズーのシーは、一瞬立ち止まりました。
振り向いて私を見つめます。

どうしたの?

シーは、はるか彼方から光を届ける星たちを、見つめていました。


前髪を垂らしたセミロングの黒髪の少女が、自分のスマートフォンで、動画を撮影していました。
何度も前髪に手をやります。
いくつかの表情をつくりました。
やがて、画面に向かって、右手でピースサインを送りました。

彼女は、化粧品やシャンプーとトリートメントが並ぶ、自宅の綺麗な洗面所で、女子高生の制服を着ていました。


動画の背景が変わりました。
少し薄暗くなっています。

再び、あの少女です。
右の大きめの黒い瞳のアップの後、俯いたために黒い前髪だけが映りました。
その後、顔を上げると、やはり垂らした前髪を何度も指で整えます。

来世は、二重がパッチリしてて
あと変な男につかまらない

彼女は、三つ編みに結って、薄いピンク色のトレーナーを着ていました。
黄色の視覚障害者誘導用点字ブロックが見えます。
どうやら、駅のホームに直に座っているようです。

終わりー
気持ち悪いよ

もごもご喋っています。

だから苦しい

また前髪を整え始めました。

他の客らしい話し声が聞こえて来まが、
すぐに沈黙が支配します。

無理だよー
だって話し相手がいないんだもん
話し相手がいません
誰も助けくれません

顔を上げます。
やや斜めを見ています。

彼氏に三つ編みが似合うと言われた
音信不通の彼氏に

今度は、じっと画面を見つめました。

意味わからない
意味わからない

左手の腹で、左目をこすりました。
鼻もすすりました。
泣いているのかもしれません。

ぜんぶ解決って感じある
後悔しないよ

あんなすぐ別な彼女作るし
わかんないや

今までやって来たことなんもない
ぜんぶダメだった気がする

私だけ頑張ってたし
わかんないや
わかんないや

前髪に手をやり続けます。

なんで私だけ頑張らなくちゃいけないのか
わからない

うーん
私頑張りたくない

なんで頑張らなくちゃいけないの?

電車なんかに轢かれたら
もう無理だ

お母さん


突然、踏み切りの警報機の音が鳴り始めました。
一瞬、少女の表情が止まりました。
左頬に添えていた手も止まり、やがて拳をつくりました。

目が左右に動きます。
唇を噛みました。

世の中すべてが、静止したかのようです。
しばらく、動画の画像も止まりました。


座っていた右足と、黒に赤い靴紐のスニーカーが映りました。
側にはペットボトルもあります。

やがて、少女は少しよろけながら、ふらりと立ち上がりました。

灰色のホームの上です。
黄色の視覚障害者誘導用点字ブロックが見えます。

隣のホームの屋根の下の照明が、膨らんで白く輝いています。
誰もいません。

夜空のたくさんの星たちだけが、彼女を見ています。

やがて、少女は線路の方へ向きを変え、ホーム際まで一歩足を運びました。

ピンク色のミニスカートを履いていました。
細い脚をやや内股にしています。

電車の警告の汽笛が、鳴り響きました。






「森」の声


秋が深まりを見せた頃…

「一本松」を、取り囲むように拡がる田んぼは、稲刈りが終わり藁があちこちに積まれていました。

つい何週間か前まで、稲穂が黄金色に輝き中心に「一本松」が、すくっと構えていました。
稲穂があたかも太平洋の波のように、風に揺れました。
それは黄金色の海原でした。


「一本松」の黒く太い枝の1つの「展望台」に登りました。
大きく丸い太陽が、阿武隈山地に隠れようとしています。
西の空は、たくさんのうろこ雲が赤く染まっていました。

やがて、太陽が半分姿を隠しました。
すると、深い緑が連なる山々も、燃え上がるように赤く染まりました。
まるで夕陽が火種となって、山々を燃やしているようです。

はっと思いました。

その山々が燃え上がるように染まった光景が、不吉な予感を呼び起こしました。

まさか

なぜか「隠遁者」の「森」と重なったのです。

「森」が燃える!

毎晩、「隠遁者」が奏でるピアノによって、コンサートホールのように、Ravelの「亡き王女のためのパヴァーヌ」が響き渡り、樹々が共鳴するあの「森」が…


家に帰ると、茶の間の箱型の大型のカラーテレビには、巨人軍の長嶋茂雄の引退セレモニーが映し出されていました。

父は豊かなオールバックの髪に、煙草の煙を吸い込ませながら、真面目な顔で見ていました。

長嶋引退するんだね

ああ
今日もホームラン打ったよ

母は、とても細く狭い台所で、夕飯の用意をしています。

昨日から、炬燵の上に置かれたままの1冊の本を、手に取りました。
「星の王子さま」

いちばんたいせつなものは、目に見えない

花束を抱えた長嶋茂雄が、球場のスタンドに手を振りながら歩いています。
大きな声援が送られていました。


たくさんの星が、散りばめられていました。
南の空の低いところに白く輝いているのは、フォーマルハウトです。
天頂近くには、ペガススの大四辺形も見えました。

星は、はるか彼方から、光を地球に届けています。
自分が生まれるずっとずっと前から、星は光を届けています。

「森」の真ん中で、立ち止まりました。
枝や葉の隙間から、星たちが覗いています。
樹と草の匂いがしました。
「森」は、温かく優しく包んでくれます。

人の世の雑念が届かない場所です。

暗闇に、樹々の幹や枝や葉っぱたちが何かを語っています。
それはとても大切なことです。
とてもとても大切なことです。

目を閉じました。

曇りなきまなこで見定める

「森」の声を聴かなくてはならない


やがて、ピアノの音色が聴こえて来ました。
Ravelの「亡き王女のためのパヴァーヌ」です。
「隠遁者」は、今晩も天国へ行ってしまったカナエのために、「森」に向けて鎮魂歌を奏でています。
コンサートホールのように響き渡り、樹々が共鳴します。

「森」さん
いつまでも見守っていてください
けっして燃えたりしないでください

声をいつまでも聴かせてください

一瞬、枝と葉っぱが僅かに揺れました。
「森」が、微笑みました。






死にたい

カヨリの口癖でした。


ろくに恋愛を経験しないまま20代後半を迎えていました。
友人から言わせると理想が高すぎるらしいのですが、それでも好きになった女の子は、何人かいました。

しかし、すべてフラれました。
告白できずに胸の中に留めた恋もありましたが、告白すれば、すべてフラれました。

流行りの服を着て、流行りの髪型にしてもダメでした。
(チェッカーズのフミヤの髪型)

なぜだろう?

ジャニーズのような美男子ではないけれど、顔は普通だし、オシャレにも気をつけている。
気遣いもできて、優しくもできるし、口下手でもない。
冗談だって言えるのに…

オオツキは、何を考えているのか
わからないところがある

大学で同じクラスだった親友のヒグチの言葉です。

そんな風に見られていたのか?


大学生の頃は、お金が入ると、後輩を連れて仙台市の繁華街の国分町のパブへ行き、女の子に声をかけました。
いわゆるナンパ。

しかし、ほとんどうまく行ったことはありません。

髪の長いとても可愛いけど、ちょっとヤンキーぽい女の子から誘われました。

部屋に来てもいいわよ

朝陽がカーテンを明るくするのを
自分のベッドから見たいんだ

来ないの?
へんなヤツ

いつも、明るくなったカーテンを、自分のベッドから見つめながら後悔しました。

なぜ泊まりに行かなかったのだろう
チャンスだったのに…


仕事で近くの仙台法務局へ行くと、見慣れないとてもきれいな女の子がいました。
すかさず、法務局の仲の良い歳下の男性職員にチェックを入れました。

あの子かわいいね
バイトの子?

はい
月曜日から来てますよ
オオツキさん気に入ったんですか?

うん
とてもタイプ

なら
歓迎会ってことで
飲みに誘ってみますよ

頼む
よろしく

それから間もなく、流行りの聖子ちゃんカットで小柄で腕が折れそうなほど細い、見た目はお人形さんのようなカヨリと飲みに行くことになりました。

しかし、初めて話をした時から、カヨリは変わっていました。
見た目とのギャップにびっくりしました。

自分に関心のあること以外まず話をしません。
漫画が好きで、おそらくずっとアニメの話しをしました。

そして、初めて2人だけで食事に行った時、カヨリは目を細めて、テーブルの上の私の手を握りました。

死にたい

1回目の死にたいです。


しかし、その後、彼女は私を無視するような態度を取るようになりました。

よくわかりませんが、彼女は、法務局で見かけても、一切言葉を交わそうとしなくなりました。

なぜ?
やっぱりまたフラれたんだ

およそ2年が過ぎました。
私は、カヨリのことを気にしながらも、ほとんど諦めていました。

すると、勤務先の後輩の女の子が、ニヤニヤしながら1通のクリーム色の封筒を差し出しました。
法務局に行った時、カヨリから私へと頼まれたようです。

オオツキさんの彼女?
可愛い子ね

すぐにトイレに入り、封筒を開けました。


オオツキさん

13日の朝、8時30分までに新幹線乗り場のかいさつ口の横にあるみどりの窓口、きっぷ売り場の前に来て下さい。

ステンドグラス(2階)の正面のエスカレーターに乗れば、すぐにみどりの窓口の前へ出られます。
わからなかったら駅員さんに聞いて下さい。

それから、8時30分までにオオツキさんが来なかったら私はひとりで東京へ行きます。
もし何かあって、たとえば急用が出きて、オオツキさんが私といっしょに行けない事情ができても、私の家にへも、法務局へも絶対に連絡しないで下さい。
(家にも職場にも内しょで行くのだからね、お願いします。)

オオツキさんも私が8時30分までに、みどりの窓口の前へ来なかったら、何かの事情があって行けなくなったと思って下さい。
この場合も絶対に職場にも私の家にも連絡しないでね。
これだけは絶対に守ってね。

だから新幹線のきっぷは13日の朝に2人が顔をあわせてから買いましょう。(おそらく2万円位です)
8時50分発のやまびこ10号か、9時発のやまびこ106号に乗ろうかなと私は思ってます。

わがまま言って本当にごめんね。
(本当はそう思ってないのかな?)

私ひとりで行っても用事は足りるのだけどもね。

でも2年間と半年あまり、あなたをふりまわしたせきにん(漢字がわからないのだ!)は私にあるから、一応義務として、あなたを佐藤さんの所へ連れて行った方が良いかもしれない。

まあ、とにかく彼女(佐藤八重子さん)のもとへ行ってみて、私が、12年間の間、何を苦しんだのか、できるかぎりの表現方で話してみようと思ってます。うまく話せると良いのだけどね。

彼女は多分私の話しをまともにとりあわないと思います。
それでも、形だけでも、この話しだけはしておかなければと私は思ってます。
(また同じことをくり返してしまった)
それではね!


9月13日の朝。
職場に有休をもらって、仙台駅3階のみどりの窓口のきっぷ売り場に向かいました。

秋のそよ風が、何かを歌っているような、爽やかな朝でした。





浅間山の微笑み


秋の空は、変わりなく青いキャンバスのような爽やかな色彩を描いていました。
高いところに、ほうきで掃いたような薄いすじ雲が見られます。

東北自動車道から北関東自動車道、関越自動車道を経て、藤岡ジャンクションより、ようやく上信越自動車道に入りました。
メタリックシルバーのMINIクーパーは、秋の風を感じながら、快調にBMWサウンドを奏でています。
もう正午を過ぎました。

スピーカーからは、松たか子の「アナと雪の女王」の「Let It Go」をはじめに、ずっとクラッシック音楽が続き、今はジブリ映画の主題歌が流れています。
辻井伸行のピアノで、Ravelの「亡き王女のためのパヴァーヌ」が流れると、太平洋沿岸の田園の拡がる農村で暮らした小学校時代の思い出の「森」が蘇って来ました。

これから起きることが、たとえどのようなことであれ、曇りなき眼で見定める

決意を新たにしました。

キリストは再び十字架にかけられる


上信越自動車道の両側は、小高い山や森が続き、日差しを浴びた緑が、より一層深く感じられます。
景色が、信濃らしい高原へと移りました。

助手席の私に抱かれていたシーは、すっかり飽きて、もぞもぞ動きます。
今にも腕の中から、飛び出しそうです。

シー
もう少しだから
我慢して

ハンドルを握るマグダラのマリアも、黒いキャップの下の奇跡のような美しい顔に、微笑みを浮かべます。

シーちゃん
あとでおいしもの
あげるからね

まるで、赤ちゃんをあやすママの口調です。

ここまで来る間に、2度パーキングエリアで休憩し、シーに用足しを兼ねて散歩をさせました。

土曜日ということもあり、どのパーキングエリアも程よく混雑していました。
停車中の車両の合間を縫って、黒いキャップに黒いミニの彼女が、シーと歩く姿はかなり目立ちます。
昼間のパーキングエリアで、絶世の美女が、白とゴールドのシーズーと歩く光景は、なかなか見れるものではありません。

シーは、初めて見る景色に、とても興奮してはしゃいでいましたが、アスファルトの駐車場の真ん中で、堂々と、軽く後ろ足を広げてしゃがみ込み、オシッコを披露しました。
小さな水たまりができて、白線の上にまで流れます。
彼女は、大笑いです。

シーちゃんは
大胆なお嬢様


碓氷軽井沢インターチェンジで、上信越自動車道を降りました。
軽井沢市内中心部へは、県道を道なりに進みます。
樹々の中を、疾走しました。
高原の風が、爽やかです。

やがて広いゴルフ練習場が現れ、秋の日差しを浴びてグリーンカラーに映えるゴルフコースも樹々の隙間から見られました。
北の青い空の下には、浅間山が聳えています。

スピーカーからは再び、松たか子の「アナと雪の女王」の「Let It Go」が流れています。

ありのままで空へ風に乗って
ありのままで飛び出してみるの


交差点を右折すると、いよいよ軽井沢市内中心部です。
宿泊先は、犬と滞在できるプリンスホテル東館ドック同伴用コテージです。
ゴールデンウィークに、何度もシーを連れて来た馴染みの宿です。

やはり土曜日なので、中心部へ向かうプリンス通りは、渋滞していました。
やがて、軽井沢プリンスホテルの巨大なショッピングプラザが見えて来ました。

JR軽井沢駅前を通り過ぎ、ショッピングプラザを後にして、ようやく樹々に囲まれた軽井沢プリンスホテル東館に着きました。
今年のゴールデンウィーク以来です。

秋のプリンスホテル東館は、ショッピングプラザの賑わいから逃れて、紅葉前の緑に囲まれた、落ち着いた静けさに包まれていました。
どこからか、小鳥たちのさえずりも聴こえて来ます。

車を降りると、ようやく解放されたシーは、リードを引っ張るように歩き出します。
しっぽをさかんに振って、とても嬉しそうです。

マグダラのマリアは、美しく優しさに満ちた笑顔でシーを見つめます。

シーちゃん
お腹空いたでしょ
私はペコペコ
デブ活しなくちゃ


チェックインまで時間があったので、軽井沢プリンスホテルショッピングプラザで、昼食を取ることにしました。

メルセデスなど外車が並ぶ駐車場から、ショッピングプラザへ向かいました。
秋の日差しが暖かく、久しぶりに眺めた浅間山が、優しく微笑んでいるようです。

彼女の父親を探す旅…
浅間山が、きっと見守ってくれる


プリンスホテルショッピングプラザのウエストエリアにあるペットエリアに、向かいました。
ショッピングプラザ内は、様々な人たちで賑わっています。
犬を連れた方も、大勢見られました。

パラソル付きの屋外のテーブルで、ペットと食事ができる「ドッグデプト+カフェ」があります。
まずは、隣の「ペットパラダイス」で、シーのご飯とおやつをたくさん買いました。

天井の青い空の下、パラソル付きの屋外の木製のテーブルで、秋のそよ風を感じながら、彼女とシーとの楽しい昼食です。
私は軽井沢高原ビールを飲みながら、黒いキャップを外した黒髪のショートカットのデブ活にいそしむ彼女と、負けじとデブ活に励むシーを眺めました。

シーは、あっと言う間におやつをたいらげ、もっと頂戴と私の膝に、前足を乗せておねだりです。

シー
もう終わりだよ
おデブになるよ

長い睫毛に茶色の瞳の彼女が、微笑んだ後に、やや曇った表情で、黒いCHANELの手さげバックから、白い封筒を取り出しました。

これが唯一の手がかりよ

秋の日差しが、彼女の黒髪を少しだけベージュに染めています。
よく見ると彼女の髪は、純粋な黒ではなくやや茶色がかった黒髪だということがわかりました。

耳には白い花形のVan Cleefのピアス、首にも白い花形のVan Cleefのペンダント。
そして、クロエオードパルファムの香り…

彼女の願いを同意した夜、彼女は右頬にキスをしてくれました。
そして、仙台市の定禅寺通りの欅並木から「声」が、聴こえました。

彼女たちと歩みなさい

幼い頃から、ずっと心の奥底にしまっていた思いと謎が、これから解き明かされて行くのかもしれない

私は、秋の日差しが注ぐ、木製のテーブルに置かれた1つの白い封筒を見つめました。

キリストは再び十字架にかけられる

北の青い空の下に、深い緑色の浅間山が聳えていました。






曇りなきまなこ


雲ひとつない夜空でした。
南の空にペガススの四辺形が見えます。

前方の白いコンクリート造りの建物の、2階の純子の部屋は、今夜も明かりがなく、ピンク色のカーテンがぼんやり霞んでいました。

彼女は毎晩のように、「森」の中の「隠遁者」の家へ通っています。

眼下の白いコンクリート造りの柵に囲まれた10畳ほどの庭には、ピンク色のコスモスが群がるように咲いていました。
時折、隣接する線路を、列車が走り去ります。
ずっと幼い頃から、子守唄がわりに聴いて来た響きです。


丸く大きな白い月が、浮かんでいました。
満月の夜です。

「森」の、けもの道のような細い路を、雑草を踏みしめながら歩きました。
枝や葉の隙間から、丸い姿は見えなくても、仄かに白く照らされた夜空が見えます。

Ravelの「亡き王女のためのパヴァーヌ」が聴こえて来ました。
今夜も「隠遁者」が、「森」に向けてピアノを奏でています。
「森」全体が、コンサートホールのように響き始めます。
樹々が、共鳴します。
立ち止まって、「森」の声に、耳を澄ましました。


「森」を抜けてから「隠遁者」の庭には入らず、そのまま佇んで音色に身を委ねました。

縁側の軒下の、3つの1mほどの背丈の茎葉の鉢のうち、左端の鉢には、あの純白の花が1輪だけ咲いていました。
真ん中に大きく飛び出した雌しべがあり、大きな花びらが重なり合って開いています。
まるで、天女がまとう薄絹の衣のような、繊細な花びらです。
朝陽を見る前に萎んでしまう、儚い花…

しばらくすると、ピアノの音色が止みました。
すると今度は、たどたどしい鍵盤を叩く音が聴こえて来ました。
純子です。


「森」へ戻りました。
やはり、枝や葉の隙間から、仄かに白く照らされた夜空が見えます
草の匂いがしました。

「森」の声を、聴こうと思いました。

ふと、「フランダースの犬」のネロが最後に観たルーベンスの絵の中の、皆に支えられている男の顔が、浮かんで来ました。
「隠遁者」に似た男は、イエスと呼ばれていました。

キリストは再び十字架にかけられる

どういうことなのだろう?
大むかし、遠い国で、人々の罪を背負い十字架に架けられたイエスという男が、再び現れるのだろうか?

ルーベンスの絵の中のような苦痛に歪んだ表情の男が、再び人々の罪を背負い十字架に架けられるのだろうか?

「星の王子さま」の中で、きつねは王子さまに大切な秘密を教えました。

いちばんたいせつなことは、目に見えない

いちばんたいせつなことは、どうしたら見えるのだろう?
もしイエスが、再び十字架に架けられることが大切なことならば、目に見えないではないか?

「森」よ
これから何が起こるの?
僕はとても怖いです


やがて、再び、Ravelの「亡き王女のためのパヴァーヌ」の音色が聴こえて来ました。
「森」全体が、コンサートホールのように響き渡り、樹々が共鳴します。

もっと「森」の声を、聴かなくては


次のよく晴れた秋の日曜日。
空は、たくさんのひつじ雲が、雲の底に薄灰色の影をつくりながら浮かんでいました。
何人かのクラスメートと一緒に、担任のナオミ先生の家に遊びに行きました。

ナオミ先生は、ある農家の家に下宿していました。
この太平洋沿いの農村には、アパートさえなかったのです。

線路を越えてすぐの、松林に囲まれた大きな農家でした。
畑のように広い庭には、ビニールハウスも設置されています。

ちょうどお昼時だったので、ナオミ先生は、カレーライスを作って待っててくれました。
秋の柔らかな日差しを浴びながら、縁側に腰掛けて、クラスメートとカレーライスを食べました。

少し甘いカレーは、とても美味しく感じました。
ビニールハウスが、日差しを浴びて輝いて見えました。

ナオミ先生は、アメリカの大学に留学していたので英語を話すことができました。
アメリカにいた頃は、ものを考えるのに日本語ではなく英語で考えていたと聞いて、とても驚きました。

昼ご飯を食べ終わり、クラスメートたちは、広い農家の庭や松林で鬼ごっこを始めました。
しかし私は加わらずに、ナオミ先生に、ずっと心の奥に潜めていた疑問を問いました。

ナオミ先生は、美しい長いストレートの黒髪が自慢の、スラリとした高身長でした。
いつも長いスカートを履いていて、フリルの付いた白いブラウスをよく着ていました。

銀縁のメガネが、多少その美貌を損なわせていましたが、とても優しいまだ20代半ばの若い教師でした。

ナオミ先生、聞きたいことがあります
この間、「星の王子さま」を読みました
きつねが、王子さまに大切な秘密を教えたんだけど
いちばんたいせつなことは、目に見えない
と言っていました
どうしたら、たいせつなことが見えるようになりますか?

ふふふ
ユキヒロ君はえらいわね
「星の王子さま」は、とても素敵なお話しです
本が好きなの?

はい
お父さんが
たくさん買ってくれました

いいお父さんね
たいせつなことを見ることは
むずかしいことかもしれないわね

………

この世の中は、とてもふくざつで
真実が見えにくくなっているの
だから、いちばんたいせつなことを見るには
曇りのないまなこで見る必要があります
英語では、unclouded globes
でも、曇りのないまなこでものを見るためには
澄んだ汚れのない心をもつことが
必要になるのよ
わかりますか?

はい
なんとなく
ネロやパトラッシュのように
なればいいと思います

ふふふ
そうね
ネロやパトラッシュのように
澄んだ心をもつように心がければ
きっと
ユキヒロ君にも
いちばんたいせつなことが見えるように
なれると思います
頑張ってみて

はい
ナオミ先生
ありがとう

ナオミ先生は、優しく頭を撫でてくれました。
銀縁メガネの奥の瞳は、優しさに満ちています。
純子と同じような石鹸の香りがしました。


ナオミ先生の農家の下宿先から家へは帰らず、お祖父さんに買ってもらったブルーの自転車で、「大排水」が左右に分かれている分岐点の「ひょっこりひょうたん島」に向かいました。

「大排水」とは、大きな用水路のことです。
幅が数メートルほどあり、小さな川のように大きいので、みな「大排水」と呼んでいました。
深緑色の水面のため、どれだけ深いのかはわかりません。
また「大排水」が二手に分かれた間の陸地を、「ひょっこりひょうたん島」と呼んでいました。
当時、流行っていたテレビ人形劇の島に、似ていたからです。

「ひょっこりひょうたん島」は、たくさんのススキに覆われていました。
背よりも高いススキの穂が、秋の日差しで銀色に輝いています。

わずかな風に乗って、田舎の匂いが届きました。
土や草や花や、田んぼや畑や生き物なんかが混ざった、懐かしい匂いです。

今年の夏に、幼なじみのカナエは、この「ひょっこりひょうたん島」の「大排水」の底から見つかりました。
人形のように息をしないカナエが、飛び込んだ父親の腕に抱きしめられました。

ススキをかき分けないと、「大排水」の深緑色の水面は見えません。
ススキを強引にかき分けて、斜面を下りて行くと、ジャポンと水音がしました。
「大排水」に棲むライギョかもしれません。

さらに、水面に近づこうとした時、雑草に足を滑らせました。

あッ

バッシャン!

僅かな水飛沫とともに、左足から白い運動靴が脱げました。
深緑色の水面に左足が獲られ、運動靴は、底の見えない川底へとゆっくり沈んで行きました。
両手で、なんとかススキの茎を掴み、身体ごと水面に落ちるのは避けられました。

あぶなかった

深緑色の水面から、白い物体が完全に消えてしまうまで、ずっと見つめました。
やがて水面は、何事もなかったかのように、再び、秋の日差しを浴びて輝き始めました。

鼓動が激しくなっていました。

カナエ

カナエも白い運動靴のように、その美しい白い身体を川底へと沈めてしまったのだと思いました。


右足だけ運動靴を履いて、びっこを引くようにして、傾きかけた秋の日差しを受けながら、ブルーの自転車を引いて歩きました。
道端のススキの穂が、わずかに風に揺れています。

左足の靴下は、びっしょり濡れています。
とても冷たく感じました。
なぜだか急に、涙が溢れて来ました。

阿武隈山地に傾き始めた秋の太陽が、何かを語りかけて来るようでした。

カナエはもういない

純子も遊んでくれなくなった

僕はカナエのように沈むところだった


国鉄の「山下」駅前の、粗末な商店街を通り過ぎました。
幾人かの通行人が、語りかけて来たような気がしましたが、何も聞こえません。
ただ驚いたような大人たちの顔だけが、走馬灯のように過ぎ去って行きました。

いちばんたいせつなことは、目に見えない

曇りのないまなこでものを見る

これから、ネロやパトラッシュのように、曇りのないまなこで、世の中を見て行こうと思いました。

阿武隈山地に陽が隠れ始め、紅く染まったススキの穂が風になびいていました。

その日以降、私は泣いたことがありません。
母が亡くなり、父が亡くなっても、一滴の涙すら出ませんでした。