信じられない優しさに満ちた空でした。
澄んだブルーの空には、ひとつの雲もありません。
涙ぐましい微笑みの空…
愛犬シーズーのシーと、いつもの散歩道の垣根付きの舗道を歩いていました。
垣根の葉は、燻んだ赤ワインのような色に染まっています。
シーは、垣根の下に顔を潜らせて匂いを嗅いでいます。
濃紺のデニム生地のジャケットの蓋付きの大きなポケットに、濃紺の手帳型のケースに包んだiPhoneを入れていました。
iPhoneからは、「ハウルの動く城」の賠償千恵子の「世界の約束」が流れています。
涙の奥にゆらぐほほえみは
時の始めからの世界の約束
いまは一人でも二人の昨日から
今日は生まれきらめく
初めて会った日のように
思い出のうちにあなたはいない
そよかぜとなって頬に触れてくる
木漏れ日の午後の別れのあとも
決して終わらない世界の約束
いまは一人でも明日は限りない
あなたが教えてくれた
夜にひそむやさしさ
思い出のうちにあなたはいない
せせらぎの歌にこの空の色に
花の香りにいつまでも生きて
この歌を初めて聴いた時、《時の始めからの世界の約束》という言葉にとても惹かれました。
《時の始めからの世界の約束》とは何だろう?
それはおそらくもっとも大切な約束のはず
ビックバンにより宇宙が始まり、たくさんの銀河が存在し、たくさんの星が輝きます。
地球では、朝陽が昇り、空が広がり、陽が沈みます。
時の始めからの現象です。
《時の始めからの世界の約束》とは、この宇宙の始めからの現象=約束なのでしょうか?
先日、朝陽が昇る頃にシーと散歩をした際、いつものようにシーがウンチをしたので、片付けようと屈んだところ、オレンジ色のカーディガンのポケットからiPhoneがコンクリートの舗道に落ちて、無惨に画面が割れました。
時の始めからの約束が!
買ったばかりのiPhoneを、取り換える痛い出費です。
それ以来、散歩には蓋付きの大きなポケットのジャケットを着ていました。
いつものように、近所のアサノスーパーに着きました。
日曜日の正午なので、駐車場には何台もの車が停まっています。
車のボンネットは、いちおうに秋の陽を浴びて眩しく輝いています。
いつも通り中央入り口の紅白の車留めに、シーのリードを結わえようとしました。
しかしちょうどその前で、30歳ぐらいの細身の女性が空を見上げていました。
淡いベージュのカーディガンを羽織り、とても鮮烈な赤いバラの模様のある薄いピンク色のワンピースを着ています。
セミロングの髪は、上品な淡いベージュのカラーです。
やや切れ長の美しい瞳でした。
何を見ているのだろう?
見上げると、やはり雲ひとつないブルーの空です。
とくに何も変わらない優しい秋の空です。
飛行機も鳥すら飛んでいません。
彼女は、同じ体勢で身じろぎせずに見上げていました。
しかしよく見ると、わずかに唇を動かしています。
何かを語りかけるように…
そして次の瞬間、右脇に何かがいるかのように右腕を肩から水平に伸ばし、そっと触れるような仕草をみせました。
大切なものを慈しむように…
赤いバラを輝かせながら…
表情が優しさに満ちていました。
秋の太陽の優しい光に、包まれています。
再び唇を動かし、何かを語りかています。
小さくゆっくり優しく…
しばらくじっと待機していました。
しかし、シーがさかんにしっぽを振って、彼女へ近づこうとします。
仕方なく、おそるおそる声をかけました。
すみません
ここに犬を結わえたいのですが
よろしいですか?
すると彼女は、一瞬ビクリとしました。
何かから目覚めたように…
あ!
ごめんなさい
気がつきませんでした
見た目よりもずっと若く澄んだ声です。
育ちの良さを感じる上品な話し方です。
私は、シーのリードを紅白の車留めにしっかり結わえながら、自分でも不思議な勇気を持って尋ねていました。
空に何か見えたのですか?
再び彼女は、ビクリとします。
そして、涙ぐましい微笑みを浮かべました。
ごめんなさい
晴れた日には、空を浮遊しているものがよく見えるのです
その中にあれがいて、私を認めるとたびたび空から降りてくるのです
そう言うと彼女は、再び雲ひとつないブルーの空を、切れ長の美しい瞳で見上げました。
秋の太陽があたたかく微笑んでいます。
しかし、私には何も見えません。
ずっと雲ひとつないブルーの空には、鳥さえも飛んでいません。
この人は、おかしなことを言う
もしかしたら、まともではなく知的障害者?
いわゆるキ印?
たちまち自己防衛で身構えました。
しかし突然、シーが大空を見上げながら吠えたのです。
普段、滅多に吠えることのないシーが吠えました。
シーどうしたの?
何かいるの?
シーは、なおも吠え続けます。
私は再び、ブルーの空を確認しました。
新たに鳥が飛んで来たのか、あるいは昆虫でも飛んでいるのか?
………
しかしやはり、天井の空には雲ひとつない青い世界が広がっているだけです。
何も認められません。
すると彼女は、先ほどと同じ優しさに満ちた表情で、シーを見つめました。
シーちゃんと言うお名前?
つぶらな瞳の可愛らしい犬ですね
シーズーですよね
今度は、正確でまともな発言です。
この人は何なのだろう?
私をからかっているだけなのか?
しかしその声を聴いて、ようやくシーは吠えるのをやめました。
今度は彼女を見上げて、さかんにしっぽを振り始めます。
秋の優しい太陽が、シーの白とゴールドの体毛を輝かせていました。
そして私は、まだ警戒心を残しながらも聞かずにはいられませでした。
あれとは何ですか?
空には何も見えません
鳥さえも飛んでいません
何が空から降りて来るのですか?
再び彼女は、涙ぐましい微笑みを浮かべます。
ゆっくりはっきり澄んだ声です。
地上から100mあたりには、アイボリー色に輝く半透明なものが浮かんでいます
それは私たちが、この人間社会で失ったものたちです
そしてその高みの空に、私の赤ちゃんもいるのです
赤ちゃんは、こうして私を認めると降りて来ます
もうカンガルーほどの大きさに成長しました
………
しかしその存在を知るには、それ相応の犠牲を払って獲得しなければなりません
それらを感じる眼と耳と心を…
空を見上げる彼女の眼には、涙が今にも溢れそうです。
しかしグッと堪えています。
びっくりしました。
とても驚きです。
そんなことがあるのだろうか?
はたしてまともなのだろうか?
アイボリー色に輝く半透明なもの…
私たちが人間社会で失ったもの…
その中からカンガルーほどに成長した赤ちゃんが、降りて来る…
またシーちゃんに会いたいわ
さかんにしっぽを振るシーを見つめたあと、赤いバラが鮮烈なワンピースの彼女は、振り向きました。
駐車場を歩く彼女の後ろ姿は、どう見てもまともです。
知的障害者にも、人をからかうような女性には思えません。
むしろ、知的で気品のある後ろ姿です…
紅白の車止めにリードを結わえたシーに、携帯用のピンク色のカップで水をあげました。
シー
どう思う?
あの人は、不思議なことを言っていたね
シーは何か見えたの?
なぜさっき吠えたりしたの?
シーは、舌を送るように上手に使い、黙ったまま美味しそうに水を飲みました。
それからようやく、アサノスーパーへ入りました。
すると待ち構えていたかのように、シーをよく可愛がってくれる犬好きの温和なパートの白髪のオバさんが、弾んだ声をかけて来ました。
シーちゃんのパパさん
あの女性と話をしたのかい
あの人は
ほら
駐車場の隣の大きな家のひとり娘だよ
………
なんでも、赤ん坊が生まれてすぐに亡くなったらしくて
いつも正午になると
ああして駐車場から空を見上げているんだよ
しかも、不倫だったという話しらしいよ
翌日も私は休みでした。
秋の空は、ひつじ雲が青い草原を並んで歩いています。
正午を待って、シーとアサノスーパーへ行きました。
私は、あの鮮烈な赤いバラの模様のワンピースの彼女に、また会いたい気持ちでした。
切れ長の美しい瞳の奥の秘密を、確かめたいと思いました。
燻んだワイン色の垣根付きの歩道を、ブルーの空を見上げながら歩きました。
やはり何もかわりありません。
白いひつじ雲のほか、アイボリー色の半透明なものなど見えません。
シーがぐいぐい前に進む具合に、アサノスーパーの駐車場へ着きました。
今日は、白いカーディガンに落ち着いた淡いグレーワンピースの彼女が、やはり空を見上げていました。
切れ長めの美しい瞳です。
やわらかく微笑んでいます。
私は、そのまま彼女を見つめました。
シーも軽くしっぽを振りながら、じっとしています。
やがて、彼女の右腕が肩まで平行に上がりました。
昨日と同じように、右脇にいる何かに触れているようです。
しばらくして彼女は、彼女の言う赤ちゃんを見送るように、優しい微笑みで、再びひつじ雲の並ぶブルーの空を見上げました。
こんにちは
今日も赤ちゃんが降りて来たのですか?
あら
シーちゃん
こんにちは
ええ
あの子は、今日も青い空にとても機嫌が良かったわ
失礼ですが
俺にはやはり、白い雲のほかに何も見えません
まだ、アイボリー色の半透明なものは見えません
俺はその存在を知れるほどに、 犠牲を払っていないということなのですか?
………
ごめんなさい
私に言えることは
何か大切なものを失った時に
空を見上げるということだけです
その秋の正午以来…
私とシーは、休みの日には必ずアサノスーパーの駐車場で、彼女と会うようになりました。
彼女は、いつも空を見上げていました。
しかし、自分のカンガルーほどに成長した赤ちゃんについて、それ以上詳しく語ることはありませんでしたし、さらに、不倫らしい相手の男のことも一切触れることはありませんでした。
やがて12月に入り、すっかり寒い日が続きました。
冬の太陽は、隠れんぼをするかのように暗い雲に覆われる日が多くなりました。
散歩すると、シーは白い息を吐きました。
そして、クリスマス・イヴを迎えました。
私は彼女に、ささやかなクリスマスプレゼントを用意していました。
クリスマス・イヴの正午…
濃紺のデニム生地のジャケットの蓋つきのポケットの中のiPhoneからクリスマスソングを流しながら、シーといつも通りアサノスーパーへ向かいました。
しかしその日も、雪模様の穢らしい黒い空でした。
駐車場は、薄っすら白い雪が覆っています。
シーは、やはり白い息を吐いていました。
彼女は、その黒い空を見上げていました。
しかも黒のレザージャケットに、あの鮮烈な赤いバラの模様のワンピースを着ています。
しかもその様子は、今までにない異様な雰囲気を漂わせていました。
なんと彼女は、ブーツではなく白いスニーカーを履いていたのです。
鮮烈な赤いバラの模様のワンピースには決して相容れない、白いスニーカーです。
私とさかんにしっぽを振るシーが近づいても、彼女は黒い空を見上げたままでした。
切れ長の美しい瞳に、翳りを感じました。
しばらくすると、ようやく私たちに気づきました。
あら
シーちゃん
こんにちは
シーは、彼女へ近づこうとぐいぐいリードを引っ張ります。
シーちゃんは
いつもかわいい子ね
彼女は、しゃがんでシーの頭を撫でました。
鮮烈な赤いバラの模様のワンピースから、白い太ももが覗いてハッとしました。
シーはやや顔を上げて、満足気に目を閉じています。
それから彼女は、憂いを帯びた顔を私に向けました。
あの子が
不機嫌なのです
こんな黒い空では
………
しかも
今日はどうしても走りたいって
彼女は、再び空を見上げました。
じっと雪模様の黒い空の高みの、アイボリー色の半透明なものたちの中の、カンガルーほど大きさの赤ちゃんに向けて…
すると、彼女は右脇に存在を認めたのか、すっと右腕を肩まで平行に上げました。
そして納得したかのように、ハッキリと言いました。
さあ
走りましょう
彼女は、鮮烈な赤いバラの模様のワンピースの裾から細く白い脚を振り上げて、走り始めました。
白いスニーカーが躍動します。
え?
突然のことに、私は呆気にとられました。
しかし、すぐにシーに声をかけました。
シー
行くよ
あとを追うんだ
鮮烈な赤いバラの模様のワンピースに白いスニーカーの彼女は、駐車場を出ると、いつもシーと散歩する燻んだワイン色の垣根付きの舗道を東へ向かいました。
しかも、彼女は右脇に何かが伴って走っているように視線を送っています。
カンガルーと走るように…
颯爽と…
意外なほど、その速さに驚きました。
シーは、短い両足を精一杯に伸ばします。
私も、日頃の運動不足を恨みながら必死に追いかけます。
しかし、息が続きません。
やがて、松の樹に囲まれた公立中学校を過ぎ、国道6号線へと進みました。
普段から、とても交通量の多い国道です。
行き交う車の轟音が、鳴り響いています。
交差点の信号機は青でした。
しかし、彼女ともうひとつの存在が車道へ降りた瞬間、信号機が変わりました。
彼女は立ち止まりました。
刹那、停車していた貨物トラックが走り出します。
その瞬間でした。
彼女は、悲痛な叫び声を上げました。
何ものかを助けるように両手を前に差し出し、トラックへと飛び出しました。
一瞬で彼女は、大きく弾き飛ばされました。
薄っすら雪の積もった舗道に、鮮烈な赤いバラの模様のワンピース姿が、9の字になって横たわっています。
赤いバラの模様の周りにも、真新しい赤い模様が広がり始めています。
信じられない光景の中で、激しく動揺しながらも、ひざまづいて彼女を抱えました。
全身が激しく震えます。
アスファルトの舗道には、ワンピースの赤いバラよりも鮮明な液体が滴り落ち続けます。
薄汚れた場所に、生命の尊い証しが吸い取られます。
ちょうど私の濃紺のジャケットのポケットのiPhoneからは、山下達郎のクリスマス・イヴが流れていました。
あー
今日は、クリスマス・イヴだというのに…
金髪の若い男が、青ざめた顔で近づいて来ました。
遠くから救急車のサイレンも微かに聞こえます。
自殺だという言葉が、耳に入ります。
ざわめきが大きくなって来ました。
シーは、もう吠え続けています。
見たこともない激しい勢いで、吠えています。
すると、鮮烈な赤いバラの模様のワンピースの脇からアイボリー色の半透明な存在が、上昇して行くように感じました。
彼女の赤ちゃん
シーは、空に上昇する存在に向かって、さらに強く激しく吠えました。
見上げると、雪模様の黒い空の一点が裂けて、一筋の光が彼女の美しい顔の赤い液体を輝かせていました。
《時の始めからの世界の約束》とは、なんだろう
こんなことが起きてしまう世界の約束とは、何だろう